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私が異性を意識する年頃になってから30年余になる。振り返ると、異性を需要と供給の関係で言えば、男の女性に対する需要が高いという前提があったように思える。
これは男女の性差があるから仕方ないのかも知れない。形態学的な凸と凹、精神的な鍵と鍵穴で、一般に男性は女性を求めるものであり、女性は男性を受け容れる形をとるのが一般的に思えるからだ。 しかも、勤め人の男にとって、社会的には「25歳頃までの結婚→30~35歳に子供→40歳までに持ち家→同期でトップクラスの出世」という定番コースの前提と強いプレッシャーがあった。これは、往時の勤め人の定年が55~60歳だったので、定年までに子供を大学卒業させたいと思ったからだ。当時の男達の親は、経済的理由で大学どころか高校にも進学できず、家族の口減らしと親への仕送りのために就職した人が多くて、トラウマの如きコンプレックスになっていたし、実力がどうあれ最終学歴で就職と給与の差がついていた現実もあったから、何があっても自分の子供を大卒にしたかったのだ。 柳沢厚労相の「女性は子を産む機械」発言が騒ぎになっているが、そういう価値観を「言わずもがな」とばかりに押しつけ、男の尻を叩く一方で女性には愛嬌ばかりを求めて甘やかして来たのは男女に拘わらず彼ら年長者の世代だった。以前は社会全体がそういう前提だったはずだ。彼らにしてみれば、多くの人が今日、明日の糧を得て生き延びるだけで精一杯だったから、ドライな割り切りは仕方なかったようだ。私には詭弁に思えるが…。 何はともあれ、そういう親の期待を背負った男達(多くは長男)は、親孝行をするためにも多少の反抗期を経ながら基本的に親の期待するプログラムに沿って生きようとした。 一方、子供達は親の気持ち子知らずだ。特に食うに困らない家庭環境で育った女の子は比較的プレッシャーも少なく好き勝手が出来た。かくして経済成長と共に女性が高騰した結果、バブルの煽りもあって「タカビー」な女性が増えた。 記憶を辿れば、1970年代後半のカレシの条件は「クルマの免許を持っている人」と極めて素朴だった。それでも、当時の経済事情の中でクルマの免許を取るのは大変だった。 しかし、1980年代になると「カレシの条件」の高騰が始まる。1980年代初頭、カレシの条件は「クルマを持っている人」になり、そしてハイソカーブーム(今ななきマークⅡ三兄弟を代表とする、脱カローラの風潮)と共に1980年代半ばには「ソアラに乗っている人」になった。若い男達は安アパート住まいで3食をカップラーメンで過ごし食費を切り詰めながら、ソアラやプレリュードといった品の良い2ドアクーペを買ってナンパに努めた。だが、余談だが当時のソアラ・オーナーにはソープ嬢が多かったようだ。ちなみに隔世の感はあるが、BMWやベンツは極めて少なくプレミアムで、本当のセレブの乗り物だった。 だが、高騰は男達の努力を虚しく振り切り、1980年代後半からのバブル最盛期は、カレシの条件が「BMW・ベンツ・ポルシェ・フェラーリに乗っている人」に至り、しかも、やっとの思いで手に入れたBMWの3シリーズは「六本木のカローラ」、ベンツのCクラスは「小ベン」とバカにされ、大多数の男達は虚しく女性達の「アッシー&メッシー君」になって行った。ジュリアナでヒラヒラ踊るタカビーな女性達の送り迎えと食事の世話をする日替わりの召使い役である。それでも万が一の可能性に賭けてアッシー&メッシーに甘んじていた。少なくとも「ジュリアナ女をゲットするという命題」に対して、大多数の男は「負け組」だった。 それでも生物学的には仕方ない摂理だ。男というのは1個の卵子(1人の女性)に群がる何億匹の精子みたいな存在だからだ。 三高は、その頃の女性が挙げた平均的な結婚相手の条件だったと思う。少なくとも高収入で高学歴であれば、親の同意が得やすいし、加えてルックスも良ければ(高身長)周囲の羨望も得られて虚栄心も満たされる。バブル万歳だった。 三高 高収入 高学歴 高身長 三低 低姿勢(レディーファースト) 低リスク(公務員など安定した職業) 低依存(お互いの生活を尊重) 三手 手伝う(家事や育児) 手を取り合う(お互いの理解と協力) 手をつなぐ(愛情) 改めて、「三高」「三低」「三手」を眺めてみると、これらを満たす男性像が現実にあるのか?と思う。 「三高」を除いて、報道通りに「三低」「三手」を満たす男性像を考えても、極めてスィートスポットが狭い気がする。少なくとも「低リスク」と「低依存」が現実的に両立する男がいるのか?と思う。 少なくとも非キャリア系の公務員なら「低リスク」で、育児休暇も取れるだろうから「手伝う」こともできるが、失礼ながら非キャリア系公務員の給料で「お互いの生活を尊重」出来るほど余裕のある生活が出来るのか?女性が年収1,000万超の仕事をしているなら良いが、そういう女性なら「家政婦代わりにダンナを生活のパートナーとして同居させてやってる」という事になる気がしてならない。それでも構わないという低姿勢な男はいるかも知れないが、その前に、そういう女性がいるのか?そうでない女性には最初から有り得ない話なのでは?と思うのだ。 かくして「結婚相手がいない」と嘆く女性が「負け組」だと思うのは勝手だが、それを言うなら男なんか過去30年にわたって大多数が負け組の辛酸を味わいつつ心の整理をつけて黙って落ち着く所に落ち着いて来たのだ。お互い様だと言いたい。 結婚は「三高」から「三低」や「三手」へ [ 02月01日 17時53分 ] <柳沢発言問題>「例えの仕方悪かった」都知事が同情的見方 [ 02月02日 20時00分 ]
by negative_opinion
| 2007-02-03 09:13
| 社会
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