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親は子育てにおいて、次の3つの課題で致命的なミスをすると、いずれ何らかの破綻が起きると思う。
1. 子の適性が親の希望する将来像に向いておらず、子が自分の意思で拒絶したときの対応。 2. 教育訓練や特訓の方法論。 3. 高い人格形成。モラルと躾。 今回の事件は、2.と3.に対して、父親が致命的なミスをしたのだろうな、と想像する。 もっとも、親自身の人格形成にバランス感覚の欠如があれば、自ずと2.と3.でリスクを背負い込む。これは、他人事でない。私も含めて今どきの親なら、程度の差はあれ誰にでもあるリスクだと思う。 取り返しのつかない事をしたのは息子だが、取り返しのつかないミスを続けて来たのは父親だったと考える。私は、父親が、どこまで自分のミスに向き合って、息子の将来をリカバリーさせられるかが、この事件の本質になると思う。父親が自分自身に向き合えなかったら、この事件に救いは無い。 異論は多いだろうが、この事件を「本当に」乗り越えられたとき、医師の資格があるのは父親の方でなく、息子の方だと思う。そして、今後この息子が自分の意思で敢えて医者になりたいと言うのであれば、社会はこの息子に医学を志す機会を与えて欲しいと思う。父親は、そのために身を捨てて全力を尽くすべきだ。それが親子の愛情ってものじゃないだろうか? 追記: 週刊誌ネタを人伝てに聞いた話で真偽は不明だが、少年の父はいったん医療関係の仕事に就職してから一念発起して医師になり、その後、不倫の果てに離婚・再婚した経緯があり、一報で医師としてスタートした年齢が遅いこともあって、長男にはスマートなキャリアを経て医師になってもらいたいという気持ちがあったとのこと。 真偽がどうあれ、「だから何?」という気持ちであるが、いずれにせよ「親の都合」を押しつけることが必ずしも「親の愛情」ではない、と思う。 そもそも、親子の愛情とは何か? ■ 親の愛情 ありがちなケースとして、親は、「子のために」、親が子に希望する将来像へ向けて特訓させる。一般的なケースは学歴をつけさせたくて勉強させることである。他には、親の特技や職業であるスポーツをはじめ、音楽のような芸能の場合もある。また、親が自分自身に叶えられなかった夢を子に託して、何かを特訓させることもある。 しかし、親がそこに込めた自称「親の愛情」とは、本当の愛情だろうか? ■ 親を慕う子供 一方で、子供は、いわゆる「良い子」ほど、親の期待に応えて認められたいので、従順に特訓を受ける。 基本的に、人は誰かに認められないと、一人では生きられない。生まれた時から、誰かに認められて、誰かを頼って生き永らえたいから、丸くカワイイ姿で生まれて、泣き叫んで自己主張し、自分を護ってくれそうな人に向かってニッコリ微笑む。 しかも、子供は社会的に自立できなければ、通常は親を頼るしか生きる術が無い。子が親を慕って親の言う事に従うのは、赤ちゃんの頃からの動物的本能であり、愛情と言うより生理現象だ。 ■ 生きるモチベーション そして、自我の芽生えと葛藤から大なり小なり反抗期を迎えるが、大きなトラウマを抱えることもなく素直に育てば、大人になっても、自分の成し遂げた事に対して誰かから「お前は良く出来る」「良くやった」「ありがとう」と言われれば率直に嬉しいものだし、その延長線で「ここまで出来るかな?」と言われれば、頑張って成し遂げようと思うものだ。 そうであれば、人が生きるモチベーションの本質は、「誰かに認められたい」と思うことだ。そして、それが「生きる術」につながるから、合理性があるのだ。逆に言えば、「認められない」事は、健常な精神を持つ人にとって最大のストレスになる。そのうえ、認められない事で何らかのトラウマを抱えると、精神的なバランス感覚を失うのだと思う。 事件を起こした息子は、自我の芽生えと葛藤の中で、自分の存在感を見失ってしまった気がする。息子にとって存在感の拠り所は、「良い子」でいることと、「学業成績」だったのだろう。だが、成績がスランプに陥れば「存在感の拠り所」が危うくなるし、一方では「良い子」でいることが自分の拠り所。でも、成績が落ちれば「悪い子」だと親になじられる。 母親は実の親でなく、母親の実子の面倒と医師の仕事で忙しい。母親に甘えられないなか、母から認められるためには、「面倒見の良い長男」を演じ続けなくてはならない。その母親からも、自分の成績を逐一チェックされ、成績の低下を父親に報告されて、父親の説教を母親から聞かされる。だから、息子にとって母親は頼れる存在とは思えない。 かくして、親から自分の存在を否定されるような感覚は心の拠り所を失い、内心でパニックを引き起こし、自分自身を追い詰める。このような状況は、「息抜きの場が学校だけ」という供述が、裏づけていると思う。 自分を追い詰めてパニックを起こせば、周囲が見えなくなる。気持ちの均衡を保とうとして、極めて自己中心的な考えしか出来なくなる。溺れた人が夢中でもがいて何にでもしがみつこうとするようなものだ。かくして、「良い子」が突然キレて凶悪犯罪を起こすのだと思う。 ■ 歪んだ心の親が増殖している 生きるモチベーションの本質が、「誰かに認められたい」と思うことであれば、「無視(シカト、あるいはスルー)」をともなう「集団イジメ」は、極めて悪質かつ陰湿な集団リンチと言えよう。集団暴行傷害事件として刑事告訴できるようにすべきだ。 また、強い意志もなく集団イジメに加わり、イジメの対象者に打撃を与えたとき、イジめた集団に帰属する意識を快感として受け止めてしまった者も、ある意味ではトラウマを抱えてしまっていると思う。何となく加わった集団リンチを通じて快楽殺人がクセになってしまうようなものだ。 小中学校でのイジメは、この30年程度の間にエスカレートして定着した感があるが、そういう経験で心の歪んだ子供が大人になって、親になっている。かくして、歪んだ心の親が増殖する。今や、「心優しく振る舞い、正義を掲げ、弱きを助ける」方が異常となり、イジメの対象になってしまうのだ。まともな優しさを貫こうとする人は、まるで増殖したゾンビに追われているような気分になるだろう。 ■ 親の勘違い それから、親は少なくとも自分に出来たことは、自分のDNAを継いだ子供にも出来るだろうと期待するし、世間的に自他共に認める「出来の良い」親ほど、子に自分のコピーになることを期待する。 ところが、子は親の完全コピーにはなれないし、まして子が親の能力を全面的に超えるケースは極めて稀だ。でも、そういう現実を受け止められない親が多い。 そもそも、「親が子に希望する将来像」に、本当の愛情があるのだろうか? 「親の都合の押しつけ」であったとすれば、そこに親として本当の愛情があるのだろうか? 親は子を思うとき、常に自省と自戒を込めて顧みる必要があると思う。 少なくとも、子の適性とミスマッチがあれば、悲劇である。 中には、「お家(家系・資産・家業の保全と承継)のため」とか、「高所得、経済力、社会的地位の安堵」のために、適性の有無にかかわらず生まれながらの宿命として子の将来を強制させるケースが現実にあるだろう。日本国民の職業選択の自由は憲法で保障されているが、天皇の長男に生まれた人がいたとして、その人に向かって「将来、何になりたいですか?」と訊く者がいるだろうか? ■ トラウマを抱えて大人になった親 今の日本人の中には、「表向き辛うじて大過なく育った大人」の中にも、先述したような経緯で精神的なバランス感覚を失い、トラウマを抱えて来た人が多いと思う。そういうトラウマを抱えた人が親になった時、子供に対して両極端な対応をするような気がしてならない。 一つは「無責任な放任」であり、もう一つは「ヒステリックな特訓」だ。 先述した通り、子は本能的に親を慕うものだ。親のスキンシップや視線、そして手助けを実感するから、精神の均衡がとれるのだ。それは、自我の芽生えと反抗期によって、否が応でも段階的に自立へ向かう。 だが、「無責任な放任」は、このような段階的な自立の過程をブチ壊す行為だ。そして、子供の人格形成を破滅に追い込む。家出しても親は無関心、家出した子供が街を彷徨う。女子は風俗商売や売春を繰り返し、男子はホームレスを集団暴行する。人としての情愛に極端に醒めてしまうケースが典型だろう。 一方、「ヒステリックな特訓」は、言うまでもなく、この事件のパターンだ。冒頭に書いた通り、父親は息子に対して致命的なミスを続けた。でも、本当はミスしたというより、父親が元々精神的なバランスを欠いていて、起こるべくして起きたのではないか?…ということだ。私は、この父親自身の生まれ育ちと人格形成を掘り下げる必要があると思う。 言わせてもらえば、このような状況が格差社会の本質を突いていると思う。経済格差よりも深刻だ。今後、格差社会を論じるなら、子供の教育問題の前に大人が抱えるバランス感覚の欠如を解決しないと、何をやっても上滑りすると思う。 ■ バランス感覚の乏しい親が、子供を壊して日本人の精神を病ませている 先ほど、「表向き辛うじて大過なく育った大人」と表現したのは、精神のバランスに問題を抱えた大人が潜在的にどんどん増殖していて、次々と人の親になっていることを強調したいからだ。 例えが唐突かも知れないが、今どきの小学校のPTAなど親が集まる場で、派閥やイジメがあるそうだ。それを子供同士の人間関係にまで持ち込まれ、世論形成をしているリーダー格のPTAの副会長の親が、気に入らない親子を名指しして、「○○と付き合うな」という風評を流すらしい。すると、親から「○○とは口をきいちゃいけません。」と言われた結果、子供の間でも名指しされた子はクラスメートからシカトされるそうだ。恐怖感から、どの親子も、そのPTAの親子に目をつけられないように立ち振る舞う。学校側も物的証拠も無いのにPTAを相手に立ち入る事もできず、親子共々ストレスを抱えて悲惨な日常を送っているらしい。 このような話を身近に聞くと、「親が子供の頃にエスカレートしていたイジメを、親になったらPTAの場に持ち込んだな…」と考えてしまう。子供の頃のトラウマを解決できないまま親になって増幅させているとしか思えない。かくして、今後、世代が変わるほど人格がどんどん歪んで行くだろうと思う。全国的にだ。
by negative_opinion
| 2006-07-06 13:29
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