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生命力の源泉は「飢餓」にある。理詰めの「必要性」では無い。生理的な本能に直結する所で飢えるから欲が出る。欲を満たすために自ら知恵と工夫を重ねるし、誰に言われるでもなく自ら行動して努力するのだ。
飢えが満たされてしまうと思考が停まり、大多数の凡人は様々な欲が萎えて、自ら行動しなくなり、好奇心や知恵が退化して行き、努力する意欲が無くなる。 多くの日本人、特に50代以下の若年層は「上げ膳据え膳」の暮らしに慣れ、物資や情報が何でもある社会に浸って暮らした結果、生命力が退化した。植物系の人が増えたのは一つの典型だと思う。 情報量が飛躍的に増えた割には、消費財に対する憧憬の念が薄れ、消費欲が低下するのは当然の成り行きだ。 問題意識のある者を「アツい奴」と醒めた言い方で敬遠する。好奇心や「何故?」と物事を掘り下げる意欲が退化しているから、プロセスに思慮が至らず表面的な結果しか見えず、短絡的な思考しか出来ない。一つの行動や一つの結果が、二次的、三次的にどのように物事を展開させて行くのか想像する事さえ思いつかない。 広告に限らず市場のブレークスルーに必要な事は、「消費者を飢えさせる事」に尽きる。そして、飢えさせるための自然に委ねたフィードバック法は「淘汰」であり、人工的な誘導法は「規制」である。前者を採用すれば小泉批判で指摘される状況になり、後者を採用すれば規制で保護される者が国全体の活力を削ぐ。どちらを採用するかは一長一短なので局面と状況によるだろう。だが、少なくとも「統制」や原理主義に万人の幸福が無いことは歴史が証明している。 そういう意味では、現代人は歴史上の誰よりも分別と節操のある大人になって知的な対応をしなくてはならないはずだが、皮肉な事に現代人は歴史上の誰よりも幼稚化しているような気がしてならない。これも自然の摂理なのだろうか。 マス広告がスルーされている決定的要因とは? 2009年5月3日 07時00分 対象メディアとその普及時期(出典:経済産業省の『情報流通センサス』レポート平成18年版 日本の社会に「情報流通」というコトバが世間に流通しはじめたのは、1998年あたりだったと記憶する。1999年7月のNTTの新体制スタートでは、「グローバル情報流通産業」を目指すと宣言。あれから10年が経ったわけである。 では果たして、この10年間に「情報流通」の量はどのくらい増えたのか? そのあたりのことが、経済産業省発表の『情報流通センサス』レポート平成18年版に掲載されている。データは、平成8年から平成18年までの10年間のもので直近10年というわけではないが、一番近い、正確な数値と言うことで掲載させていただく。 ●ここ10年で約532倍 (1)発信情報量 各メディアの情報発信者が、1年間に送り出した情報の総量。複製を行って発信した場合及び同一の情報を繰り返し発信した場合も含む量は、ここ10年で何倍になったか? 約97倍 (2)消 費 情 報 量 各メディアを通じて、1年間に情報の消費者が実際に受け取り、消費した情報の総量は、ここ10年で何倍になったか? 約64倍 (3)選択可能情報量 各メディアの情報受信点において、1年間に情報消費者が選択可能な形で提供された情報の総量は、ここ10年で何倍になったか? 約532倍 (4)パーソナルメディアに限った選択可能情報量 PC、携帯電話などのパーソナルメディアだけに限定して、1年間に情報消費者が選択可能な形で提供された情報の総量をここ10年で見てみると? 約6785倍 日本人1人の人間が情報を取得しようと思えば得ることのできるはずの情報=選択可能情報量は、ここ10年で約532倍になった。数字だけを見ると、NTTグループが宣言したように「情報流通」は、1つのグローバル産業となったようだ。 ちなみに世界的規模で見ると(米国の市場調査会社IDCによる報告書より)、2007年の1年間に世界で生成・複製されたデジタル情報量は計281エクサバイト。これは、単純計算で500GBのHDD5億6000万個強分。2011年には、その6倍強の1.8ゼッタバイトに達すると見込まれているという。もう、何が何やら想像もつかない。 ●「情報流通」の可能性を享受できていない しかし情報流通量が爆発的に増えたここ10年、ヒトは豊かになったか? が本質的な問題だ。「グローバル情報流通」は、暮らしを便利にはしているが、豊かにしているとは実感できないでいる。「情報流通」の可能性を、残念ながら私たちは享受できていない。 その虚しさを象徴するのが、年々拡大の一途にある「選択可能情報量=約532倍」と実際に消費された「消費情報量=約64倍」との差である。要するに私たちは、膨大な情報に囲まれながら、そのほとんどを無視しているという点にある。 さらに消費情報量が約64倍になったからと言って、その消費した中身は自分がほしい幅の狭い情報だけを選択して、深く濃くなっていたり、やたらめったら広く浅くなったり、「薄いものまたは幅の狭いもの」になっているだけなのかもしれない。 情報流通量の莫大な増加を推し進めている「パーソナルメディアに限った選択可能情報」は、いつでも、どこでも取得しにいける「検索+格納可能な情報」であることを私たちは知っている。そうなると、情報鮮度への感覚が鈍る。情報取得と行動の不一致が起こる。情報を故意に無視しているというより、幅広い情報に対して「無感覚」になっている受け手を増加させている。 情報は、関心が生じたときに「こちらから取得しにいくもの」という意識が定着したら、マス広告のような、プッシュ型の広告情報はさらに意義をなくすことになる。広告は目には入っているけど、無感覚であるがゆえ無意識にスルーしている。テレビはついているけど、広告は届いていない。 自分にとって興味のない情報には、有益でない情報には、無意識にオフスイッチを入れる。そんな機能をパーソナルメディアは、情報の受け手である私たちに付加させたのだ。耳には、入ってきているけど、情報として処理されない。目には、入ってきているけど、自分の中で情報化されない。視聴率でも、視聴質でも、広告効果を送り手の論理で測定・予測できない時代になっている。結局は動いたかどうか、行動に結びついたかどうか、費用対効果=ROIこそが、選択可能情報量爆発的増加の時代の広告指標となるしかない。 ●「編集の価値」が相対的に高まる インターネットを開けば格納されているはずであろう広告コンテンツをテレビで真面目に視聴して、行動へと結び付けていくような、従順な視聴者などもういない。垂れ流される広告を文化だというクリエイティブ呆けもお払い箱だろう。 消費情報量を遥かに超える選択可能情報量約532倍の世界では、情報の受け手にとってその情報を結びつけて、有意義なものに見せようとする「編集の価値」が相対的に高まる。そこで重要なのは、情報を拡げて伝えるのが得意な「映像」よりも、情報を編集して集約していく「言葉」である。 タイトルの時代。コピーの時代。シナリオの時代。無駄にならない、無視されない、そんな言葉を紡ぎ出すセンスが、広告に、企業経営に何よりも必要な時代になったのだと考える。(中村修治)
by negative_opinion
| 2009-05-05 06:45
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