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「人を信じてよく使う」と、美談仕立ての例を挙げながらマネジメントに携わる者の心得を説く話は多い。
チームの士気高揚、スタッフのモチベーション向上のためには、リーダーとの信頼関係が基本であり、リーダーがスタッフに対して不信感があっては任用できない。一方、スタッフも上司の態度には敏感だから、信頼されてないと感じ取れば、どんな美辞麗句でフォローされようとも士気は高まらない。 掃除や片づけの作業ひとつ例に挙げても、仕事は1人でやるより、同じ作業を2人でやれば半分以下の時間で終えて、2倍を超える効率をもたらす場合が多い。一方、二人で馴れ合いダラけた結果、1人でやるより時間がかかり、0.5に満たない効率となる場合もある。 その点、機械化したり外部のプロに外注すれば、機械の性能や外注先の実績で「仕事が読める」。予算内で目標の仕事量を達成できるなら、機械や外注先に仕事をやらせた方が堅実だ。しかし、デフレと縮小均衡が続くご時世だから、機械を買ったり外注する予算もないのに、機械の性能や外注先の能力を超える目標をクリアしないと事業が成り立たず存続できない・・・、といった局面が日常化する。 予算が無いのに、機械や外注先のプロにも出来ない仕事を内輪の誰がやれというのか?合理的に考えれば、こういう局面になった時点で「終わり」である。サッサと事業の継続を諦めて全員解雇して解散だ。 そういう局面のブレークスルーが、1+1を3にするような士気向上。給料が上がったりボーナスがつくわけでなく、むしろ削られる中で全く合理性が無いのだから、そんなシナリオは成り立たない。どこに動機や合理性があるのだろうか? 何といっても、労使共々、他に生きる道が無ければ、他に今以上の処遇で雇ってくれる職が無ければ、今の職にしがみつかざるを得ないからだろう。 #
by negative_opinion
| 2012-03-04 09:06
| その他つぶやき
1980年代の半ば、日本の半導体産業は「産業のコメ」と呼ばれ国の基幹産業であり、花形だった。私が在学していた大学の電気工学科では、成績優秀な人達にとって半導体産業は定番の就職先だった。
その後、国際競争が激化する一方、開発・設計・製造の高度化、さらにはサムソンをはじめとする韓国勢の台頭とコスト競争が激化した結果、全日本チーム結成のように、NEC・日立・三菱と、事実上は国産半導体メーカーが1社に集結してエルピーダメモリ社が発足した経緯は、素人の私が知ったかぶるまでもない。 半導体産業にコモディティ化という表現が当てはまるのか知らないが、いくら差別化・高度化しても、アッという間に平凡なモノになってしまい、投資を回収する前に価格競争に陥る。そのうえ、市場拡大の主要ユーザーだったPCが市場飽和した挙句、リーマン・ショック後の世界不況で市場収縮。「焼き畑農業」で言えば、焼き尽くして作付けを行う土地が無くなってしまったようだ。そして、強烈な円高で日本製の「コメ」は、コスト競争力を完全に失った。「国産米」に対する意地も、現実の前には虚しい精神論だ。 かつて羨望の視線を浴びながら意気揚々と就職して行った優秀な人達は、戦前の日本なら海軍や陸軍の兵学校に入った優秀な若者であり、自他共に将来の高級将校を確信するエリート達。太平洋戦争から敗戦に至る挫折を繰り返してしまったような気がしてならない。 今にして思えば、素人の私でさえ「もっともらしく」評論できるが、30年前に今の状況を予言することなど考えられなかった。韓国勢の上位メーカーを引き合いに、エルピーダの経営戦略ミスという指摘もあるが、国産をビジネスの前提にしている限り、価格競争力も採算性も有り得ない。 日本人は、「安心・安全」の絶対担保を求めるのが大好きなのに、30年後のビジネスモデルの前提(主に人件費要因による、新興国に対する価格競争力の喪失、為替レート)を悲観的に予測したときのシナリオを描いて折り込めなかったのか? 大地震や原発事故もそうだが、日本人は破滅的な将来予測や悲観シナリオをリアルに描いたり、それに向き合う事を「杞憂」で片づけて逃げる性質があると思う。「人間は、いずれ死を迎える」という普遍的な現実でさえ、絶対に起こるのに、向き合おうとしない。 出生率が低下すれば高齢社会となり、元気に働く世代の負担が高まり、人口収縮が起こり、社会保障費ひいては国家予算が構造的に破綻するシナリオも、30年どころか40年前でも論理的に想定できた。 中国をはじめ東南アジア諸国が桁違いに安い人件費と庶民の生活向上意欲を武器にコモディティ化した製品を安く量産するシナリオだって、日本が自ら実践して往時の欧米トップ・メーカー達を次々と衰退・破滅へ追い込み証明して来たではないか。 庶民の教育水準の高さ、愚直なまでの勤勉さ、忠誠心やモラルの高さを根拠に、「日本と同じ事が他国に出来るわけがない」という、言わずもがなの楽観的な空気が議論の前提になっていたと確信しているが、この30年の間に、日本は「個性化」の大義のもと、均質で比較的高水準だった基礎学力が世界トップレベルから中盤レベルに低下する一方、楽観視していたアジア諸国の学力水準が目覚しいレベルアップを果たした。忠誠心や廉恥の情念がなくなり、「自分らしく個性的に生きる」ことが単なる「身勝手」として定着し、モラルも勤勉さも失った。 「サラリーマン人生は陳腐でつまらない。頑張っても人生設計の前提が保証されず、給料は下がるし、終身雇用さえ担保されずリストラ解雇される。」という意識は、バブル期までの「Japan as No.1」を誇った日本人になかった。日本がアメリカに追いつき・追い越した理由として、アメリカ人庶民の勤労意識をそのように指摘していた。 全て、歴史的な事実や論理的な予測から想定できた事態なのに、受験戦争を勝ち残り東大法卒のトップエリートとして官界・財界を担った人達も、政治家もジャーナリズムも、インテリな有識者も、誰も本気で向き合わなかった。誰もが足元の課題やトラブル、目先の成長に執心で、そういうテーマに向き合うことはバカな変人扱いで、定番の「出世コース」を自ら離脱する意思表明になった。 まぁ、とりあえず、自己矛盾している国産米が、破綻したわけだ。 More #
by negative_opinion
| 2012-02-29 01:15
| 政治・経済
光市母子殺害事件で被告の死刑が確定した。被害者・加害者双方の当事者の心情と、心の移り変わりを思うと、報道を断片的に見聞きしているに過ぎない立場の私に責任ある言論の資格は無いが、敢えて無責任な立場から自己満足のために感じたことを書き留めることにした。
判決に対しては、「被害者感情」「加害者の責任」「社会秩序の維持」という観点から死刑を支持する立場と、「更生機会の付与」「生存権擁護から全ての殺人に反対し、権力による殺人も絶対反対」という考えから死刑反対の立場があると思う。 私は前者の立場だ。高い知性をもつ博愛主義者なら、その理念を貫くために後者を支持するだろうが、私は知性が乏しい現実論者なのだと思う。 無責任な立場から敢えて言わせてもらえれば、私は被告の父親が事件の真因と思っている。保護者の責任も含めて父親を吊るし上げ、被告と共に死刑に処したい気持ちである。 裁判の過程で、被告は被害者と自身が置かれた状況に向き合っていなかった。自分の事しか考えていない様子が社会的な心証を悪くした。庶民感情を逆撫でし、被害者感情が高まり、世間から同情された。ただし、被告は年齢よりも心が未熟で幼かった。本人の意思でそういう人格になったわけでなく、法的には責任能力の欠如や更生機会の付与という論理や先例主義が働いた結果、最初は無期懲役の判決だったと思う。その後、被害者感情と処罰感情が判決をひっくり返した経緯は、世の流れで私も支持する立場だ。 さらに加えたい考えは、歳相応に心が育っておらず、未熟である事については、保護者と義務教育に携わった教育者も重大な責任を負うべきということだ。直接的な加害者の処罰だけでは、「トカゲのシッポ斬り」に過ぎず、社会秩序(日本人が大好きな、安心・安全な社会)の本質的な改善につながらない。 現在の法体系や考え方の中では、現実的に不可能で荒唐無稽と嘲笑されるだろうが、少なくとも未成年の犯罪については保護者も同罪にして結果責任を負わせないと、社会秩序の崩壊に歯止めがかからないと思う。 今回のように「被害者の敵討ち」で終わってしまうと、死刑に処せられる加害者の命が活かされない。せめて本質的な再発防止に寄与させることが、「命の意義」につながるのではないだろうか? More #
by negative_opinion
| 2012-02-21 08:41
| 社会
<訃報>松平康隆さん81歳=元男子バレー日本代表監督が報じられ、昭和の高度成長期を回顧する懐古趣味の衝動が生じた。
ミュンヘン五輪('72)当時、40年前の松平監督を今で言えば、ザック監督と、なでしこ・佐々木監督を掛け合わせても足りないほどの実績と知名度だったと思うが、昨夜のNHK・ニュースウオッチ9を見ていたら、女子アナが「今日まで、この人を知らなかった」と言っていたのが印象的だ。今から40年後にはザック監督や佐々木監督を知らない人がいるのかも知れない。 「アタックNo.1」や「サインはV」(共に原作開始は'68~)、競技は違うが「巨人の星('66~)」「柔道一直線('69~)」「あしたのジョー('67~)など、当時は「スポ根」マンガやドラマの全盛期。スポ根ドラマをリアルで実現した金メダルだった。血と汗と涙の悲壮感が漂う「根性論」と共に、何と言っても当時は荒唐無稽と思われる「技やトレーニング」が共通項だったと思う。 体格やパワーの圧倒的な違いがあれば、最初から「日本人にはムリ」と言って諦めるのが常識だろうが、それを諦めずに、実績が無いどころか荒唐無稽でも必殺技を編み出して、新技術を駆使して本当に世界一になった。 今どき「世界一の強味」を持たないと生きて行けないし、生き残れない。TPPがどうなろうが、いずれにせよ国際競争力のあるモノやサービスで外貨を稼いで来ないと生きて行けないからだ。格差を嫌う平和ボケした日本人にとって、「心を鬼にして一番を目指すこと」を好む・好まざるにかかわらず、日本が「生き残る」には、「世界一」を目指さざるを得ない。鉱物資源が乏しい日本がマクロ経済を支える産業で世界一の強味を持ち、稼ぎ続けるのは、スポーツにおいて体格差やパワーが圧倒的に異なる異国のチームと勝負するのと似たようなものだ。松平監督は、今も昔も変わらない「日本の生きる道」を実践して、ヒントを示した先人と思った。 逆に言えば、根性論を哂いモノにして生理的に拒絶する風潮のなか、常識と実績の延長線上でしか物事を考えられないような人材を再生産し続けて来た「今どきの日本」は、先人の根性で勝ち取った過去の栄光に安住して、先人の根性を冷やかしながら、無形の財産を食い潰し、「生きる道」を自ら閉ざして来たわけだ。 More #
by negative_opinion
| 2012-01-06 08:23
| スポーツ・芸能
平成23年が終わり、平成24年になった。2011年が終わり、2012年になった。
「3.11」を持ち出すまでもなく、平成23年(2011年)は酷い年だった。私は被災者ではないが、この数年で生活基盤が崩れ事業が赤字続きとなり、倒産と破産が現実になって来た年だった。甘く見積もっても、事業の余命はあと2年。今の調子で更に売上が底割れしたり、不測の支出があれば余命1年がいいところか。 この先、楽観できる好材料は何ひとつ無いが、悲観すべき材料だけは、理路整然と論文が書けるほど沢山ある。 絶望的な状況の中で、わざわざ自殺する度胸はないけれど、生きる希望は何もない。ただ、不健康な生活習慣のせいで癌になれば、むしろゴールが見えた気がして安堵するつもりだ。もちろん一切の治療をしないし、下手に早期発見をすると迷いが生じるので手遅れになるまで受診しない。それから、脳卒中や心筋梗塞になって中途半端に救命して障害が残ると更なる負担が辛いので、家族は私を救命しない事にしている。私が家族に頼むまでもなく、家族の方から宣言されている。つまり、私の存在は、その程度なのだ。 それでも生きてる間は、生きなくてはならない。 誰を恨んでも状況は良くならないので、恨むのも面倒だ。 誰を頼っても私の状況を救う事は不可能だし、そもそも私を救う動機が存在しないので、誰かを頼る気にもならない。 私を頼る人は誰もいないので、生き甲斐もない。そもそも、頼られた所で私には何も出来ないので、頼られたくもない。 ただただ、生きている間は私に既に課せられた義務を淡々と果たすのみである。 周りの人達は楽しそうだ。何が根拠だか知らないが、何か希望を持っているようだ。 生きる事に執着して、健康に気をつかっている人が多い。 この世に希望など何もないのに、長生きして何が楽しいのだろうか・・・? そして、希望が何もなくても、楽しそうにバカバカしい事で騒いだり、くだらない事で笑っている。 たとえ空騒ぎでも、それが出来る人が羨ましい。私は空騒ぎをする気分にもなれない。 いったい、私は何のために生きているのだろう・・・? 社会に何も遺せぬまま、誰の役に立つこともできず、自己満足もなく、意味の乏しい人生を漫然とダラダラ送ってしまった。 今となっては、何もかもが面倒で、億劫だ。そんな新年の所感である。 #
by negative_opinion
| 2012-01-03 18:23
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