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私は何でも物事を悲観的に捉える。自他共に認める暗いヤツだ。
しかも私の本音が顔に出て傍目に直ぐバレるから、誰からも距離を置かれる。 リアルなコミュニティの中では出来る限り調子を合わせているが、疲れて顔に出る。 調子が良くて皆が浮かれている時ほど、内心はブルーになる。 絶頂とは下降と衰退、ひいては滅亡の始まりだからだ。 堕ちる恐怖と絶望を味わうくらいなら、絶頂を先延ばしにして苦しみ登り続ける方がマシだ。 苦しくても上を向いて歩く方が楽しい。 ホントかどうか知らないが、登山で起こる遭難は下山途中の方が多いと聞く。 飛行機は離陸より着陸の方が難しいと聞く。 賞賛すべき事を成し遂げても、晩節を汚した人は多い。 私は一度きりの人生で何を成し遂げたいわけでもない。ただ、生きたい。 それから、周りになるべく迷惑をかけず、晩節を汚さず、出来れば誰かの役に立ってから、綺麗に死にたい。 しかし、これは矛盾しまくりで調子の良い話だ。偽善と非難されても仕方ない。 何故なら、誰かに迷惑をかけなきゃ生きられないから。死ぬというのは肉体の破壊だから、基本的に苦しくて、汚い。普通に死んだら、後は必ず誰かのお世話にならないと亡骸を始末できない。誰にも迷惑をかけない死に方は、汚い。結局は誰かに迷惑をかける。 それに「誰かの役に立ちたい」、と望むのは自己愛で、相手からの感謝を期待したら偽善だ。ましてや相手に感謝を強要するのは最低だ。 例えば、我が子に対し「親の愛情」と称して何不自由なく与えコテコテの過保護をしたとする。 こういうバカ親ぶりを賞賛する人はいるかも知れないが、その結果、内外から「親に感謝しろ」とプレッシャーをかけられ、親に頭が上がらず、永遠に親から自立できない子に育ち、いずれ親が衰えて養えなくなり、親が先に逝ってしまえば、それは子に対する究極のネグレクトである。残された子供は親の自己愛の被害者である。 あるいはその前に、多感な時期を迎えた子供が自立しようと反抗し、親の愛情という美名の下に自立の芽を摘まれて挫折すれば、その恨みを反社会的な行動で晴らそうとするかも知れない。もしそうなれば、それは親の自己愛と偽善がもたらす、取り返しのつかない社会悪だ。 そもそも、自分の行為が人の役に立ったかどうかは、あくまで結果論で後世の第三者が判断することだ。「ありがた迷惑」になっていれば、謙虚に反省すべきだ。例えば、私は自分の価値観が合理的で正義であると押しつけ傲慢に振る舞い、結果的には大量殺戮を繰り返し、本音は他国からの搾取と自国の覇権を追求するアメリカが大嫌いだ。でも、今まで私自身が無意識の内に似たような事をしたり、加担して来ているのだろう。 公私共々こういう葛藤に向き合って、折り合いをつけながら、少しでも幅広い周りの人と末永く平穏を守るために、先々の課題を洗い出して問題に向き合い、解決し続けて行くことが、私にとって「生きる」ということなのかも知れない。 だからこそ課題を洗い出して問題に向き合うために、トコトン悲観的に考えるのである。 人は既得権益と築いたモノを失うのが怖いから不安になったり動揺する。悲観的な将来像を描いて、命以外の全てを失った状況を覚悟すれば、居直れる。そこから上を向いて歩こうと思えば、取り敢えず今を生きる気分になるものだ。
販売不振で赤字続きだ。資金が底をついたら倒産する。
「なりふり構わず仕事を取って来る。リストラはしない。死なば諸どもだ。」と宣言した。 誰もが無表情で反応が無い。 「・・・ってか、給料上がらないの?」という、心の声が聞こえて来る。そんな空気感。 これが私の職場だ。 数ヵ月後、やっとの思いで仕事を取って来た。 今までになく粗っぽく荒っぽい発注元で、段取りに戸惑う状況。 でも、世間はこれが普通だと思う。今までがラク過ぎたのだ。 でも、皆にしてみれば、そんな事は知ったことじゃない。誰もが明らかに不機嫌。 「余計な仕事を増やしやがって・・・」という職場の空気感。 この調子で定年まで潰れずに生き延びられたら、みんなイイ人生だよな? でも・・・、みんな一生ずっと不満なんだろうね。きっと。 朝礼の挨拶は聞こえないほど小さい声で、明らかに挨拶をシカトするのに、 休憩時間は隣の部屋にも聞こえて来るほどの大声で大爆笑。 挨拶の声が小さい事を指摘したら、「オレは元々、声が小さいから」と言い訳してたのにね? 震災や風評被害で生活基盤を失ってる人達には、全く無関心。心を痛める素振りもない。 明日は我が身なのにね? 確定しない事を考えたり、思いを馳せるのは、どうもバカらしいようだ。 でも、馬券や宝くじやロトの結果には情熱を注いでいる。 休憩時間は同僚と大騒ぎして、 自己啓発のイベントは集団ボイコットしながら、 裏でコソコソ気の合う者だけで遊びに行ったりするクセに、 そんな仲間の誰かがトラブったり体調を崩して休んだら、知らん振り。 この職場は、仮面コミュニティか? 内輪ではデカい顔して上司相手に上から目線で偉そうに話すクセに、 渉外に連れ出せば、借りて来た猫。 面倒臭い仕事、やりたくない仕事はシカトする。 痺れを切らした上司がやれば良いと考えている。 やれば、やったで鼻で哂って文句をつける。 上司に対して。 この職場が無くなったら、 今の姿勢と能力では、おそらく半分か1/3の給料でも雇う職場は無いだろう。 そういう自身の状況を客観視できないのだろうか? それとも「潰れるワケない」とタカをくくっているのだろうか? そういう彼らの態度を、「信頼されている」と解釈すべきだろうか? それとも、ナメられて、バカにされていると受け止めるべきだろうか? あるいは、あまりに無能で状況を理解できない幼稚な精神構造と思うべきだろうか? もしくは、単なる「甘ったれ」なのだろうか? まぁ、少なくともオレが信頼されている事だけは無いのだろう。。。
「人を信じてよく使う」と、美談仕立ての例を挙げながらマネジメントに携わる者の心得を説く話は多い。
チームの士気高揚、スタッフのモチベーション向上のためには、リーダーとの信頼関係が基本であり、リーダーがスタッフに対して不信感があっては任用できない。一方、スタッフも上司の態度には敏感だから、信頼されてないと感じ取れば、どんな美辞麗句でフォローされようとも士気は高まらない。 掃除や片づけの作業ひとつ例に挙げても、仕事は1人でやるより、同じ作業を2人でやれば半分以下の時間で終えて、2倍を超える効率をもたらす場合が多い。一方、二人で馴れ合いダラけた結果、1人でやるより時間がかかり、0.5に満たない効率となる場合もある。 その点、機械化したり外部のプロに外注すれば、機械の性能や外注先の実績で「仕事が読める」。予算内で目標の仕事量を達成できるなら、機械や外注先に仕事をやらせた方が堅実だ。しかし、デフレと縮小均衡が続くご時世だから、機械を買ったり外注する予算もないのに、機械の性能や外注先の能力を超える目標をクリアしないと事業が成り立たず存続できない・・・、といった局面が日常化する。 予算が無いのに、機械や外注先のプロにも出来ない仕事を内輪の誰がやれというのか?合理的に考えれば、こういう局面になった時点で「終わり」である。サッサと事業の継続を諦めて全員解雇して解散だ。 そういう局面のブレークスルーが、1+1を3にするような士気向上。給料が上がったりボーナスがつくわけでなく、むしろ削られる中で全く合理性が無いのだから、そんなシナリオは成り立たない。どこに動機や合理性があるのだろうか? 何といっても、労使共々、他に生きる道が無ければ、他に今以上の処遇で雇ってくれる職が無ければ、今の職にしがみつかざるを得ないからだろう。
平成23年が終わり、平成24年になった。2011年が終わり、2012年になった。
「3.11」を持ち出すまでもなく、平成23年(2011年)は酷い年だった。私は被災者ではないが、この数年で生活基盤が崩れ事業が赤字続きとなり、倒産と破産が現実になって来た年だった。甘く見積もっても、事業の余命はあと2年。今の調子で更に売上が底割れしたり、不測の支出があれば余命1年がいいところか。 この先、楽観できる好材料は何ひとつ無いが、悲観すべき材料だけは、理路整然と論文が書けるほど沢山ある。 絶望的な状況の中で、わざわざ自殺する度胸はないけれど、生きる希望は何もない。ただ、不健康な生活習慣のせいで癌になれば、むしろゴールが見えた気がして安堵するつもりだ。もちろん一切の治療をしないし、下手に早期発見をすると迷いが生じるので手遅れになるまで受診しない。それから、脳卒中や心筋梗塞になって中途半端に救命して障害が残ると更なる負担が辛いので、家族は私を救命しない事にしている。私が家族に頼むまでもなく、家族の方から宣言されている。つまり、私の存在は、その程度なのだ。 それでも生きてる間は、生きなくてはならない。 誰を恨んでも状況は良くならないので、恨むのも面倒だ。 誰を頼っても私の状況を救う事は不可能だし、そもそも私を救う動機が存在しないので、誰かを頼る気にもならない。 私を頼る人は誰もいないので、生き甲斐もない。そもそも、頼られた所で私には何も出来ないので、頼られたくもない。 ただただ、生きている間は私に既に課せられた義務を淡々と果たすのみである。 周りの人達は楽しそうだ。何が根拠だか知らないが、何か希望を持っているようだ。 生きる事に執着して、健康に気をつかっている人が多い。 この世に希望など何もないのに、長生きして何が楽しいのだろうか・・・? そして、希望が何もなくても、楽しそうにバカバカしい事で騒いだり、くだらない事で笑っている。 たとえ空騒ぎでも、それが出来る人が羨ましい。私は空騒ぎをする気分にもなれない。 いったい、私は何のために生きているのだろう・・・? 社会に何も遺せぬまま、誰の役に立つこともできず、自己満足もなく、意味の乏しい人生を漫然とダラダラ送ってしまった。 今となっては、何もかもが面倒で、億劫だ。そんな新年の所感である。
1.法的に離婚原因として適正か?
離婚が認められる法的要件の一つに、「配偶者に不貞な行為があったとき」というのがある。「不貞行為」とは、配偶者のある者が自由な意思に基づいて、配偶者以外の第三者と性的な関係を持つこと・・・らしい。 別の要件の一つには、「その他婚姻を継続し難い重大な事由があるとき」というのもある。「夫婦の関係が修復不可能な程度まで破綻し、婚姻を継続させることができないと一般的に考えられる場合」だそうで、具体例の中には「性格の不一致」とか「性の不一致」がある。 となると、婚約前の交際期間中の風俗通いに道義的な問題はあるだろうが、少なくとも配偶者に出会う前の風俗通いは「不貞」に当たらないはずだ。 それから、「風俗通い」自体への許容度について「不潔!」として絶対に受け容れられない立場の人がいるとしても、それは潔癖な性格によるものである。 夫婦関係の修復が不可能で婚姻の継続ができないほどの「性格の不一致」であると認められれば、離婚原因になるのだろう。 実際、道義的経緯がどうあれ、生理的に配偶者を受けつけられなければ、法的な婚姻の前提である性交渉が成立しなくなるのは明らか。周りが社会通念を押しつけて説得しようとも、夫婦関係の修復は不可能だろうし、婚姻の継続は性交渉の観点から不可能である。したがって、本人が「無理」だと言うなら、サッサとビジネスライクに淡々と離婚すべきである。 ただし、個人的には当事者の状況には全く同情しない。その程度の事で結婚を破綻させるなら、最初から結婚なんてしなけりゃ良いのだ。 2.道義的に適正か? 一言で言えば、「婚前の風俗通いが離婚するほどダメというなら、結婚する前にダメ出しすれば良かったじゃん?それほど大事に考える話を、どうして結婚前に確認しなかったの?確認したけど騙されたの?」という話に尽きる。 その結果、いくつかのパターンによって微妙に対応は違うかも知れない。だが、いずれにせよ離婚原因にするほどの重要な要件なら、結婚前にそういう要件を相手に通告して、それらの要件これに抵触しないことを相手に念押ししていたかが道義的なポイントだ。 何しろ「価値観の違い」は現実だ。完全一致するのは有り得ないと思う。自ずと、本人にとって「言わずもがな」の事であっても、社会通念に関するものなら、なおのこと相手に通用するとは限らない。特に「性風俗」の利用は微妙である。アンダーグラウンドの本音で言えば「性風俗はOK」あるいは「性風俗は望ましくないが容認する」とする者を合わせれば過半数を超えると思うが、建前論として言えない立場の人が多いうえ、性風俗も今は多様化しており、業態によって可否の意向が分かれるかも知れない。いずれにせよ客観的なデータが無い中で、これらの状況が問題を複雑にしている。 若干の社会経験による個人的な印象で述べれば、程度の差はあれ「少なからぬ割合の男」が「性風俗」のお世話になっているだろう・・・とは思う。さらに、「廓」の時代から「青線・赤線」の時代も含めた風俗業界の社会的意義や歴史的経緯も含めて言えば、社会秩序を維持する観点から「必要悪」と合理的に考える「男の本音」は根強い。 昔は、廓や赤線・青線の女性にプロ意識と心意気があったようで、廓は「性教育実習の場」であり、無垢な男に「女性の(紳士的な)扱いを教える場」でもあったらしい。だから、たとえ公教育や家庭教育に性教育が無くても、むしろ昔の男の方が総じて紳士的でオーソドックスな性生活が出来たものと思われる。成田空港が無かったとはいえ、成田離婚は無かった。 しかし、今どき以上の経緯や考えを表立って言う行為は、現代社会における人権と平等の建前がある以上、立場と影響力がある人ほど絶対的なタブーである。 それから、性風俗の利用経験や利用頻度などについて、全容を正確に把握できる客観的なデータが無い。しかも、実態としては社会的なセグメントによって、利用経験や利用頻度の状況が違うだろう。そうなると、男性をひとくくりにして、社会通念から「風俗通いは男性にとって一般的な行為であり、問題行動でない」とまでは言い切れない。 契約社会の米国流なら、結婚前に離婚時の対応を考えて双方の権利と義務を契約として文書化するのだろうが、日本では口にしにくい利権や性の事まで離婚を前提に明文化して契約する事に違和感を覚える人が多いだろう。 日本では今でも結婚は男女の夫婦が生涯を共にして添い遂げるのが前提で、夫婦は同居して子作り・子育てに励み、「お家」の承継と興隆を目指すものだ・・・、という価値観が前提で制度設計されている。今の実態がどうあれ、このような建前論が社会通念としても根強いから、このような立場の人にしてみれば、そもそも「角の立つ」「エグい別れ話」を想定するのがタブーである。 だから、腹を探り合うように、結婚相手の本人はもとより、親族・友人など周辺のプロフィールや言動の一挙一動に神経を張り巡らせて想像力を発揮し、直接、訊けない事項に問題が有るかどうかを判断する。無難な方法の定番は、昔なら由緒正しい家柄の出自と堅実な学歴をベースに、本人と育て親が実直・誠実な人柄かどうかを見極めることだったが、今は家柄や学歴は保証にならないし、親の教育や躾のレベルが低下しているのでアテにならない。 となれば、米国流に何もかもオープンに検証し、契約ベースで合理的に対応するか、これまでの日本流でやるなら、結婚後に離婚原因になるようなリスクを抱える覚悟で結婚するかの二者択一である。 少なくとも、結果的に婚前に確認しなかった問題については、確認しなかった側にも道義的な責任の一端がある・・・、というのが私の考え。少なくとも風俗通いをした側に全ての負担を負わせる発想には賛同しない。私から見れば男性側の不貞とは思えないので、慰謝料や養育費が男性側に発生するとは思わない。むしろ、女性側からの一方的な婚姻関係の解除なので、慰謝料や諸々の費用は女性側が負担すべきと考える。もちろん私の個人的な素人考え。その裁定は当事者の協議次第だし、揉めたら家裁で争うことだ。 More
なでしこ・佐々木監督が執筆した「なでしこ力」が評判で、売れているらしい。プロ野球では野村監督もそうだったが、チーム・スポーツでキャラの立った監督が結果を出すと、すぐマネジメント本が出て、流行る。監督はチヤホヤされて、「理想の上司」の上位にランキングされる。
となれば、こういう監督のマネジメントを女子の多い職場など仕事に流用できないか?と考えるのが世の常だ。 私が思うに、参考になるのは「目標を(選手・スタッフと)共有すること」の一点に尽きるが、逆に言えば、それだけだ。そもそも、プロ野球や全日本の代表チームは「一戦必勝」ひいては「Aクラス」「メダル獲得」、そして「優勝」という単純明快で合理的な目標を共有し易い。 現実の仕事で、目標を単純明快に「勝ち負け」や「優勝」に設定できる企業や職場は極めて限定的だ。ドラッカーをはじめマネジメント屋さんは、それこそ単純明快な目標設定に落とし込む事こそマネジメントであり、経営者やマネージャーの重要な役割であると説教するが、そこまで割り切って目標に落とし込めないのが多くの職場の現実だろう。 しかも、目標達成できると直感できる目標設定でないと、多くの共感が得られない。達成シナリオと実現性が直感できないと、モチベーションが起きない。凡人は、そういう者だ。「挑戦・チャレンジ」という語を理念のキーワードに据える経営者や職場は、逆説的だが好奇心も挑戦意欲も持てな凡人の集団であることを自認しているようなものだ。 さらには、経営者・中間管理職・現場スタッフそれぞれの立場や、社内ヒエラルキーの同じ立場でも人それぞれの価値観や生き様によって、価値と損得勘定の基準がバラバラなので、目標が共有できない事が多い。 例えば経営者が「売上日本一」を目標に掲げたところで、そのために仕事が増えて、日本一になったところで給料が増えるワケでもなく、無理して日本一になった後でリストラ局面となれば、いつ斬られるか分からない・・・、と中間管理職やスタッフが考えれば、シラけてしまうものだ。 結局、どの立場にも損得が一致する事項でないと、目標設定は出来ないのだ。 More
記事にあるように、「メディア側」が「会見する側」よりも「偉い」立場になるのは何故か?
これは「偉い」のではなく、単なる「力関係」の話だと思う。すなわち、会見する側に「弱味」があれば、「弱味を握る側」に対して腰が低くなるのは自然なことだ。 一方、「偉い」といっても、解釈はいろいろある。 1.組織や社会通念上の「ヒエラルキー」で、序列が自分より上にある立場を「偉い人」と総称する場合。 2.人として自分自身の実感として尊敬し、また客観的に観ても大多数の共感を得られると確信できる人を「偉い」と表現する場合。 3.「大変だったね」と苦労をねぎらうとき、地方によって「えらかったね」と表現する場合。 4.「ずいぶん」という副詞を「えらい」という形容詞を副詞的に代用する場合。 「えらい沢山あったね」とか、「えらく叱られた」みたいに使う場合。 細かい話はさておき、上記の1.と2.に話を絞れば、この記事にある「偉い」を「5.」として、次のように解釈したい。 5.ヒエラルキー上の序列が上にあるわけでなく、人道的に観ても尊敬に値しないが、「力関係で優位」にある者が、劣位にある者に対して非礼な言動や不条理を押しつけている状況を皮肉る場合。 要は、社会通念上の序列で説明のつかない立場の人が、人としても全く尊敬できないのに、優位な立場を振りかざしているのだ。 メディアやジャーナリズムの裏側は、皆そういう「偉い人」だと世間に印象づけてはマズいから、メディアの中で自浄作用が働くのかも知れないが、あくまでも表向きのポーズに過ぎないだろうな、とも思う。 記者はなぜそんなに偉いのか 大臣辞任会見「ヤクザ質問」の一部始終 2011年9月12日 18時39分 (2011年9月12日 19時28分 更新) 鉢呂吉雄経産相が不適切な発言で辞任に追い込まれた問題で、辞任会見での記者の態度が批判を浴びている。会見では、辞任の理由となった発言の内容について説明する声が相次ぎ、中には「説明しろって言ってんだよ!」と、ヤクザまがいの言葉遣いをする記者も出た。会見場での記者の傲慢な言葉遣いは、今までもたびたび批判されており、問題が繰り返された形だ。 鉢呂氏は、福島第1原子力発電所周辺の自治体を「死の街」と表現したことと、原発視察後、記者に防災服をなすりつけるしぐさをしたことが問題視された。 「説明しろって言ってんだよ!」 後者については、非公式な(いわゆる「オフレコ」)懇談の場での出来事だったこともあって、具体的にどのような発言をしたかは明らかではない。実際、各社の記事でも、 「放射能をうつしてやる」(共同) 「放射能をつけちゃうぞ」(朝日) 「放射能をつけたぞ」(毎日) 「ほら、放射能」(読売) 「放射能をつけてやろうか」(日経) と、表現がばらついている。このため、2011年9月10日夜に開かれた会見では、発言の具体的な内容を確認する質問が相次いだ。批判を浴びることになる記者の質問は、この中で出た。 幹事社の共同通信が質問を終えた直後に、男性記者が突然、 「すいません、あの、一連の発言と仰いますけども、具体的に何を発言してお辞めになられるのか、具体的に仰っていただかないと、なぜお辞めになるのかわかりません」 と質問。記者会見で質問するときは、社名と自分の名前を名乗るのが通例だが、この記者はそれをしなかった。 鉢呂氏が、原因について(1)「死の街」という表現をした(2)記者との非公式懇談の場で「不信を抱かせるような言動があったというふうに捉えられた」、などと説明すると、記者は、 「具体的にどう仰ったんですか。あなたね、国務大臣をお辞めになられるんだから、その理由ぐらいきちんと説明しなさい」 と命令口調に。鉢呂氏が「非公式の記者の皆さんとの懇談ということもあって、そのひとつひとつに定かな記憶というものもありませんので」と釈明すると、記者は鉢呂氏の発言をさえぎって 「定かな記憶がないのに辞めるんですか。定かな事だから辞めるんでしょう。きちんと説明ぐらいしなさい!最後ぐらい」 と声を荒げた。 鉢呂氏が「私は国民の皆さん、福島県の皆さんに不信の念を抱かせた。こういうふうに考えて…」と続けると、記者は、「何を言って不信の念を抱かせたか説明しろって言ってんだよ!」 「何を言ったからだってだってんだよ!」 と怒鳴った。 「そんなヤクザ言葉、あなた、やめなさいよ」 大臣の会見で、このような口調で質問をする記者は珍しく、別の記者が、 「そんなヤクザ言葉、あなた、やめなさいよ。記者でしょう。敬意を持って質問してくださいよ!」 「恥ずかしいよ、君はどこの記者だ!」 と怒鳴る場面もあった。 だが、不祥事に関する記者会見では、たびたび記者の態度が問題にされている。例えば、2011年3月14日に東京電力が開いた会見では、計画停電の対象エリアや、停電が始まる時間についての情報が二転三転。さらに、当初発表されていたエリア以外にも、誤って停電させていたエリアがあることが明らかになり、記者からは、 「計画停電ですらないじゃないか」 「どうせ、まだ(間違って停電させたところが)あるんでしょ!」 と怒号が飛んだ。 05年には、JR西日本の福知山線事故をめぐり、大手新聞社の記者が、同社幹部を 「そんなことないやろ、人が死んでんねんで!」 「あんたら、もうエエわ。はよ呼んで。そこから先は(社長に)聞くから。はよ呼んでよっ!」 「あんたら、みんなクビや!」 などと罵倒。週刊新潮が「『記者会見で罵声』を浴びせた『ヒゲの傲慢記者』の社名」という記事を掲載し、記者の態度を批判したこともある。 社会総合 - エキサイトニュース
国家元首の立場にあって、きわどいテーマを開口一番に敢えて持ち出し、巧みな例えでスベらずに大爆笑を得る素晴らしいジョークのセンス。しかも近況を端的に伝えながら、メディアへの皮肉と注文の意図も込めている。自虐的だが卑屈でないので、誰も傷つかないし、嫌味と思わずに済む。
こういうセンスのあるジョークをタイムリーに巧く話すのは、今どき相応の立場にある日本人には絶対ムリだと思う。むしろ昔の日本人エクゼクティブには巧い人がいたと思うが、死滅した気がする。語学力は総じてレベルアップしているのに、皮肉なことに笑いのセンスを身につけていない。 そりゃそうだ。ボケ役を突っ込みボコボコに叩くだけの、下品で下劣な芸人トークが「日本の笑い」なのだから。マイノリティを際立たせてボコボコに叩き、観る者をヘラヘラ笑わせるとは、何とも内向きで醜い。だが、かれこれ30年以上も、そういう「お笑い」で日本人は笑って来た。日本人の性根が腐るのは当たり前かも知れない。 日本人は元々つまらない国民性だが、時代と共に内向きになり、ますますつまらなくなっている。 「私の性生活は“コーラ”のようだ」、フィリピン大統領 [マニラ(フィリピン) 1日 AP] フィリピンの大統領ベニグノ・アキノ3世(51)が、自身の性生活について「レギュラーからゼロへ……まるでコーラのようだ」と発言して話題となっている。 現在中国を公式訪問中のアキノ大統領は水曜日、北京のフィリピン人コミュニティに姿を見せると、さながら舞台の上のコメディアンの様に話し始めた。 大統領は開口一番、「いつも性生活はどうですかと質問されるので答えます。コカコーラみたいなものです……以前はレギュラー(定期的)でしたが、それがライトになり、いまではゼロです」と発言。会場は大爆笑となったという。 昨年大統領に就任したアキノ氏はこれまでに数名の女性と破局しているが、「マスコミの詮索の目が原因で私のロマンスが台無しになる」と、よくメディアを非難しているそうだ。 「私の性生活は“コーラ”のようだ」、フィリピン大統領(AP) - エキサイトニュース
もし、「結婚」自体をゴールに据える人がいるなら、「どうぞ、ご勝手に・・・」と言いたい。婚姻届を出せば、ゴール達成である。
ドラマの類で、「幸せになりたい」という極めて抽象的な欲求から、結婚を願望する人を見かける。もし、実際にそんな人がいるなら、その人は「既に幸せ」だ。 定義と目的、目標が無い「幸せ」の追求は、すなわち「気分屋」による「欲求のブラックホール」である。蜃気楼を追うようなもので、どこまで得られても永遠に幸せになれない。無限に広がる欲求と願望のために、あれこれ相手の品定めをしている内が華である。だから、その能天気に対して「既に幸せ」と書いた。 「極めて例外的な人」を除けば、大多数の庶民にとって現実の人生は、泥臭い。カッコ良く行かない事ばかりだし、修羅場もあるし、我慢する事やイヤな事ばかりだ。イヤな事を敬遠して、我慢しないように生きたとしても、結局は特に盛り上がる事もなく凡庸で、怠惰で退屈な日常になる。何故ならば、何事も「日常」になると、多くの場合は退屈になるからだ。せいぜい、その先にあるのは生活の破綻だ。 今の状況は、多くの人が自身のことを「極めて例外的な人」になるかも知れないと勘違いしていることで、それを謙虚に「夢」と言いながら人生の目標に据えていることだ。夢を追うのは勝手だが、誰も彼もが勘違いしている世の中になってしまい、現実に向き合って折り合いをつけようとする人が貴重な存在になってしまった。ここまで来ると、勘違いな夢追い人は、社会悪である。昔と違って、そういう人に引導を渡す役割を果たす人がいなくなってしまったものだから、勘違いな人の割合が限りなく100%になりつつある。何しろ引導を渡すべき親が勘違いしているのだから話にならない。 結婚は、今の日常を何も良くしてくれない。せいぜい新婚生活に飽きるまでの数ヶ月を少し新鮮に思わせてくれるだけだ。戸籍にバッテンをつける事が目的なら構わないが、今の独身生活を変えたいだけの結婚なら、わざわざ結婚して離婚するくらいなら、生活に飽きるまで同棲すれば良い。今どきの人は同棲が大してタブー視されないから、羨ましい。次々と相手を変えて、飽きるまで同棲すれば良いのだ。 じゃあ、なぜ結婚をするのか? 結局、結婚とは社会制度の枠組みの中で子育てをするのに、リスクを抑えるための手段に過ぎない。 もう一つ、結婚に意義を見出すなら、「社会システムに迎合する意思表示」である。すなわち初婚で婚姻歴が長く、子供を社会制度の枠組みの中で無事に育てている人は、その実績から道義的に一定の社会的信用があると見なされる。「結婚と子供」を求める親や年長者による説教の真意は、「信用」を得るための「体裁整え」である。 したがって、社会的信用を得る気もなく、子を育てる気も無いなら、結婚する必要など無いのだ。 ただ、そこまで割り切れる人は未だ限られている。特に女性の多くは、妊娠・出産の機能が備わっている事を証明したいと考えるものだ。見栄もあるだろうし、体裁を整えるためのプレッシャーもあるだろう。「女の幸せは妻になり母になること」と洗脳されている事もあるのだろう。 だが、不幸な結末になるのが明らかなのに、たったそれだけの理由で結婚を願望するのは愚かである。 記事では「日によって気分の落差が激しい」「なにごとに対してもブランド志向」「節約が趣味」という女性が男から結婚相手として敬遠されるように書かれているが、そういう女でありながら、配偶者欲しさに猫をかぶって本性を隠しても、結婚後の惨めな結末は明らかである。 気まぐれ、気分屋で、機嫌の落差が激しく、それをコントロール出来ない人は、いくら我慢しても、そういう人である。結婚はスッパリ諦めて、「私は結婚なんてムリー」と、自身に言い聞かせるのを兼ねて世間の人達に宣言するのが最善である。 ブランド志向の人は、それでも生活が成り立つ配偶者と結婚すれば良いし、節約趣味の人は、節約趣味の男と一緒になれば良い。結婚に関するこのような記事を真に受けて、自身の本性を隠して異性の気を引こうと考える時点で、結婚する前から破綻が始まっている。 結婚は、万事が「相性」と「生活基盤」であり、その不一致を埋めるのが「寛容」と「忍耐」、もしくは「諦観(あきらめ)」である。 それから、結婚を永続させる本質は「恋愛感情」でなく、「人としての誠実さ」にある。人によっては、「人としての誠実さ」を「愛情」と表現するのかも知れないが、宗教的な教義の背景を持たない私には、どうでも良いことだ。少なくとも、たとえ恋愛感情が結婚を決意する動機になっても、結婚を永続させるための十分条件にはならない。 女性コラム - エキサイトニュース More
「ムダ毛処理」を彼に見られたくない?・・・初々しいこと言って、そんな事で添い遂げられるか?そんなレベルのことが恥ずかしい内は、「ままごと」に過ぎない。ラブラブメールを適当にやってるのは、折り込み済みだ。どうでも良い。
「同棲している部屋に浮気相手の男を連れ込みHして、彼と絶対しないプレイで彼とHする時よりも気持ち良くなってイク瞬間。」は彼に見られても構わないのか?もしくは、「浮気相手とHしながら彼にラブラブメールを送ってる最中」は、彼に見られても構わないのか? 女性コラム - エキサイトニュース More < 前のページ次のページ >
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