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光市母子殺害事件で被告の死刑が確定した。被害者・加害者双方の当事者の心情と、心の移り変わりを思うと、報道を断片的に見聞きしているに過ぎない立場の私に責任ある言論の資格は無いが、敢えて無責任な立場から自己満足のために感じたことを書き留めることにした。
判決に対しては、「被害者感情」「加害者の責任」「社会秩序の維持」という観点から死刑を支持する立場と、「更生機会の付与」「生存権擁護から全ての殺人に反対し、権力による殺人も絶対反対」という考えから死刑反対の立場があると思う。 私は前者の立場だ。高い知性をもつ博愛主義者なら、その理念を貫くために後者を支持するだろうが、私は知性が乏しい現実論者なのだと思う。 無責任な立場から敢えて言わせてもらえれば、私は被告の父親が事件の真因と思っている。保護者の責任も含めて父親を吊るし上げ、被告と共に死刑に処したい気持ちである。 裁判の過程で、被告は被害者と自身が置かれた状況に向き合っていなかった。自分の事しか考えていない様子が社会的な心証を悪くした。庶民感情を逆撫でし、被害者感情が高まり、世間から同情された。ただし、被告は年齢よりも心が未熟で幼かった。本人の意思でそういう人格になったわけでなく、法的には責任能力の欠如や更生機会の付与という論理や先例主義が働いた結果、最初は無期懲役の判決だったと思う。その後、被害者感情と処罰感情が判決をひっくり返した経緯は、世の流れで私も支持する立場だ。 さらに加えたい考えは、歳相応に心が育っておらず、未熟である事については、保護者と義務教育に携わった教育者も重大な責任を負うべきということだ。直接的な加害者の処罰だけでは、「トカゲのシッポ斬り」に過ぎず、社会秩序(日本人が大好きな、安心・安全な社会)の本質的な改善につながらない。 現在の法体系や考え方の中では、現実的に不可能で荒唐無稽と嘲笑されるだろうが、少なくとも未成年の犯罪については保護者も同罪にして結果責任を負わせないと、社会秩序の崩壊に歯止めがかからないと思う。 今回のように「被害者の敵討ち」で終わってしまうと、死刑に処せられる加害者の命が活かされない。せめて本質的な再発防止に寄与させることが、「命の意義」につながるのではないだろうか? More
悠香を擁護する意図は無いが、「小麦の成分を入れること」自体に現行法の法的問題あるいは道義的な問題は無いと思う。道義的な問題は、クレーム処理にあったはずだ。
自伝本の揚げ足を取るコラムを読むと、悠香に悪意はなく情熱的に「茶のしずく」を開発したようだが、とにかく結果的に小麦アレルギーの恐さと発生頻度に気づかなかったか、もしくは小麦アレルギーのリスクを過小評価した。 自然素材で低刺激・・・といったイメージを訴求をすれば、敏感肌やアレルギー持ちのリスキーな消費者が敢えて購入する可能性はいっそう高まる。しかも真矢みきを起用して美容効果と信頼性が高いイメージで大々的に宣伝した。わざわざ「地雷」を掻き集めたわけだ。 悠香の関係者が「良いモノを創ろう」という気持ちにウソは無かったのかも知れないが、モノ作りに携わる者は、誰もが相反するリスクに葛藤するものだ。そういう中で、いかに地雷を踏まずに、喜んで欲しい顧客に喜んでもらうか・・・、という顧客の「絞り込み」を行い、整合させる。例えば、「小麦アレルギーの人は本品を使わないで下さい。」という事前の警告や注意案内だ。それでも花粉症のように、使い続ける事でいずれ発症するケースがあるので絶対担保にはならない。 一方では、低刺激で安心・安全を訴求していながら、アレルギーの人に使うなと言うのは矛盾している・・・という営業・マーケティング部門からの社内的な突っ込みもあるだろう。 いずれにせよ、その程度の絞り込もしないで十把一絡げに皆が喜ぶと考えたなら、それは「無知」であり、無邪気な愛嬌では済まされない。そこが道義的な問題になるだろう。 しかも、製造販売元である悠香にクレームが来ないわけがない。そのクレーム処理と抜本対策に向き合わず、結果的に事の重大さを過小評価したわけだ。 となれば、いくら高い志の奇麗事を語ろうとも、悪徳な商売人根性の誹りはまぬがれない。「焼肉酒家えびす」と同じである。 志に悪意が無く、関係法令を守れば、結果的に消費者を傷つけ迷惑をかけても企業責任は無いのか?そういう局面で、クレームに向き合わず、あるいは逆ギレする態度を取った時点で、「悪徳商売人」の烙印を押されてしまう。結局は生活者をバカにした悪徳商売人根性が透けて見えるから、誰からも擁護も同情もされぬまま、面白おかしく吊るし上げられるのだ。 悠香「茶のしずく」 自覚なき発症の恐怖 悠香『茶のしずく』~日本一愛されない会社への転落 「あきらめないで!」と宣伝した真矢みきは痛恨の極みか
先ず、「陰口を言うこと」は人道的に卑怯である。
辞書によれば、「卑怯」とは「勇気のないこと」であり、「正々堂々としないこと」と書いてある。 せいぜい昭和40年代中頃までの一般家庭における子供に対する躾のポイントは、「他人に迷惑をかけるな」と「卑怯な事をするな」が多かった。そして、「正義のヒーロー」と「勧善懲悪」がドラマのテーマとして成立していた。自ずと、卑怯を戒める一環として「他人の陰口は言うものじゃない」と躾けられた人は多かったと思う。 そもそも「卑怯者」は基本的に信用されない。たとえ自身に被害が無くても卑怯な人がいるコミュニティでは鬱陶しく(今風に言えば「ウザい」)思われ、いずれ嫌われるものだ。心ある人なら周囲の信用を得たいし、嫌われたくないから、卑怯な振る舞いを慎むものだし、それが軽率な言動の「抑止力」になるものだ。この力学は、今でも実社会の常識として辛うじて成立していると思う。 しかし、正義を貫くと損をしたり、正義感ぶってるオトナが卑怯者や偽善者だったり・・・、といった話が増えて、今どき「正義」を語ること自体が嘘っぽくなって来た。オトナ自体が自信を無くして堂々と正義の言動を貫く親も教師もいなくなった。そういうオトナに絶望した子供がオトナになって親や教師になり、卑怯を慎む躾を受けずに育つ子供が再生産されて、社会のモラルが加速度的に崩壊した。 しかも、この15年余でインターネット社会となり、誰もが匿名で言論の自由を謳歌できるようになった。匿名だと先述の「抑止力」が利かなくなるのは明らか。しかも、バブル崩壊と少子高齢化で右肩上がりの成長が構造的に終焉している。多くの人が既得の生活基盤を失う不安やストレスを抱え、将来展望が持てない。いちど生活基盤を失った人は元の生活水準に復活するのは絶望的。自ずと今の生活基盤にしがみついている大多数の人達は保身とリスク回避で精一杯。となれば、大多数の人達にとって、次の動機や感情が膨らむのは自然の流れだ。 1.匿名性があるネット上では、抑止力が利かず卑怯な言論が可能。 しかも、抑止力が利かないから感情論がムキ出しになり、無限に増大する。 2.不安やストレスに対する不満のはけ口を求めたい。 匿名なうえ叩く相手の顔がリアルに見えないと、抑制が利かなくなる。 気に入らない人に対して自身の手で直接殺害するほどの殺意も無いのに、 死んでも構わないと考え、死んで欲しいと発言し、匿名の陰口であれば たとえ他人を死ぬほど精神的に追い込んでも当事者意識が生じない。 3.手詰まりな状況と思考停止にともなう、過剰な期待と依存心の増大。 「誰か、何とかしてよ~・・・」という心境。 突き抜けた結果を出した人は賞賛され、依存的に期待される。 4.正義への絶望と不信がもたらす疑心暗鬼と偽善に対する過剰な怒り。 5.正論・筋論に対する原理主義化と整合性の厳格化。 「私は我慢しているのに、他人のルールの逸脱は許せない!」 6.妬み・嫉みがもたらす強者や上位者への反感。 「出る杭を打ちたい気持ち」 7.内向き志向と共感が自制心を失わせる。 「内輪」で大勢の共感があれば、異質を排するための卑怯な言動も免罪符? 私は学者や専門家じゃないので客観的な事実にもとづく体系的な分類や考察も出来ないが、「ネウヨ」「ネトウヨ」「ネット右翼」と呼ばれる人や「ネチズン」「ネット市民」「ネット庶民」と呼ばれる人達の「ネット世論」は、概ね以上の要素で言論の背景や動機を説明できるのではないだろうか? 所詮は私も「ネウヨ」っぽい「ネット庶民」の一人であり、私自身が卑怯者だ。 そして、卑怯は「良し悪し」とか「他人から赦されるかどうか」の問題でなく、自分自身が「自身の卑怯を赦せるか?」という「生き様」の問題だ。少なくとも私は自分自身を赦せない。恥に思う。正当化しようとすればするほど、惨めになる。 エンタメ総合 - エキサイトニュース More
国や行政、東電が三者三様の発表を行い、各メディアが抱え込んだ専門家や記者、解説員が、それぞれの解釈で解説する。一部のメディアは扇情的に針小棒大な報道をして不安を煽り、過剰反応した人々の対応を大きく報道して、不安の増幅と過剰反応の連鎖と悪循環が起きる。誰もが混乱し迷惑するが、その一方で儲かるのは、視聴率を集めたり部数を稼いだメディアであり、特需が起きて利益を先食いするメーカーと流通・小売である。こういう扇動に踊らされるのは、バカバカしいと思う。
そのような状況の中、生活者が街頭インタビューで「もっと情報が欲しい」と言う。TVも観られない被災地の当事者ならともかく、少なくともTVが観られる状態にある人なら、情報そのものは過剰にあると思う。足りないのは、観る側であり、情報を受ける側の見識と判断能力だ。 事態の責任は事業者と監督所轄の行政・政府にある。だが、彼らは何事も前例と実績主義なので、想定外の事には全く対応する能力が無い。そんな彼らに、想定外の出来事に対して「安心・安全」の結果が保証できないのは明らかだ。そんな状況でゴリゴリ彼らに注文したり無能ぶりを非難しても仕方がない。その虚しさは、ニワトリやペンギンに向かって、「渡り鳥みたいに空を飛んで遠くへ行け」と願うのと同じレベルに思える。 無能者をいくら頼っても、都合の良い進展は得られない。無能者を責めても、問題状況は解決しない。政府も行政も見限って、自身の判断で行動するしかない。 例えば放射能。避難地域で立ち入り禁止となり、自宅や会社にモノを取りに帰れないのに、家や会社にある書類が無いと行政の助成金や補償が受けられない場合がある。役人は人間のクセに、血が通ってないコンピュータの機械的な計算結果と同じように、「助成金は出せません。避難地域の立ち入りは禁止です。」と、救済の趣旨から矛盾した事を平気な顔で言う。ちなみに、お役所相手のこんな話は平時も日常茶飯事だ。役人を人間と思うとイラつくので、出来の悪いアプリケーションを入れたパソコン相手と思う事にしている。そう思えば、少しでも無事に趣旨通りの動きが得られると、「オォーっ!」という歓声と共に、感謝の念が生じる。印鑑証明の用紙を記入して、ほどなく自分の印鑑証明を渡された時など、感謝感激。嫌味半分の誉め殺しでも、相手の役人はニコニコする。これも明るい社会づくりの社会貢献だ。 さて、被爆した放射能と健康被害の関係に対する孫氏の指摘はごもっともだし、放射能は浴びないに越した事は無い。だが、レントゲン検査を受けたり、レントゲン室の横を歩いたり、飛行機に乗って移動しているのが日常なのに、何を今さら微量の放射能に過剰反応するのだろうか不思議でならない。広島・長崎の原爆投下で相当な放射能が撒き散らされたハズだが、投下後に現地入りした人達や周辺の住民などが放射能にやられたのだろうか?皆が放射能で発癌して早世していたら、隠蔽したくても問題になっていただろうと思う。 となれば、現時点の放射能に過剰反応してイラつきながら、咥え煙草でクルマを運転して高い水を買いに行く方が、ずっと危険だと思う。野菜や海産物を食べずに食生活のバランスを崩して、買い溜めしたカップラーメンばかり食べ続けた時に生じる動脈硬化や高血圧、ひいては血栓症や脳出血、糖尿病で死亡するリスク上昇の方が、はるかに高い気がする。わずかな放射能の大気や降雨よりも、パチンコ屋や喫煙所の横を通る時に吸い込む日常的な間接喫煙にともなう発癌リスクの方が桁外れに大きいと確信する。 私はリスク自体の位置づけを考えるべきだと思う。有識者に敢えて情報や解説を求めるなら、こういう日常的なリスクとの対比に関心がある。そうすれば、行政が余計なお世話の制止をしようとも、立ち入り禁止の自宅へ行くという選択肢を検討できる。私なら(既に入手困難と聞くが)放射能の測定器を調達して測定しながら自分で判断して行動する。 規制とは、あくまで「収拾がつかないから」という、行政側の都合である。行政は地雷を踏んで責任を問われぬように、そして、なるべくラクに仕事したいから、民間人の行動を規制するのだ。行政はどのみち安心・安全の結果を保証してくれない。政治家が口先でいくら耳心地の良い事を言おうとも、結局は納得できるような補償はしてくれない。選挙前の候補者が何を叫ぼうとも、政権交代から今に至る国の財政状況を見れば明らかである。 ネットコラム - エキサイトニュース More
検察というのは、真実がどうあれ、あらかじめ決めつけた世間ウケするシナリオに沿って逮捕した人に供述させて、起訴して有罪にするのがルーチンワークだと解った。
検察官は、世間ウケする悪人をでっちあげてでも吊るし上げ、センセーショナルな起訴で世間の喝采さえ浴びれば、エースと言われて昇進するわけだ。大阪ならではの親分・子分人事やら、東京地検への意地といった背景も、なるほどなー・・・と思ってしまう。 でっちあげの供述が破綻して観念した前田容疑者が故意の改ざんを供述した一方、そんな部下を「とかげの尻尾斬り」にして自身の立場を安堵させるため、元上司は「故意でなくミスだった」と苦しい言い訳をして、備忘録なる証拠を主張する姿は、全くもって情けなく、滑稽もであり、極めて皮肉な光景だ。 そんなもの、仮にその場で記したメモであるにせよ、「故意でなくミス」というシナリオに沿ったメモ書きを残したとしか考えられない。そもそも、FDに保存されたファイルの作成日時を、都合の良い日時に変更すること自体が、故意でなくては出来ないのは明らかだ。 「鬼の検察・特捜」にしては、やった事と、その言い訳があまりに幼稚だと思う。そんな幼稚さに辟易として内部告発とメディアへのリークを敢行した若手(美人?)検事が本当に存在するなら、その正義感と勇気ある行動が山を動かしたと称賛したい。エリート男はイザというとき保身に走るが、エリート女は捨て身の行動を取るものだと実感する。ただ、それにしても・・・、何だか安っぽいTVドラマみたいな展開だ。 「供述さえあれば起訴して有罪に出来る」と、これまで流れ仕事のようにやって来た検察なのに、国民が描いたシナリオ通りの明快な供述がありながら、元上司を犯人隠避で逮捕・起訴しなければ、全ての国民・メディアから非難の一斉砲火を浴びることだろう。 真実がどうあれ、国民が心に描くシナリオ通りに逮捕・起訴され、有罪に吊るし上げられてしまえと言いたい。 逆の立場を味わうが良い! 前大阪特捜部長ら2人逮捕へ 犯人隠避容疑で最高検 大阪地検特捜部の押収資料改ざん事件で最高検は1日、証拠隠滅容疑で逮捕した主任検事前田恒彦容疑者(43)のデータ書き換えが故意だったと認識しながら隠ぺいしたとして、犯人隠避の疑いで前特捜部長大坪弘道容疑者(57)=現京都地検次席検事=と、前副部長佐賀元明容疑者(49)=現神戸地検特別刑事部長=の逮捕状を取った。容疑が固まり次第、逮捕する方針。 前特捜部長らを再聴取 逮捕方針、最終判断へ 大阪地検特捜部の押収資料改ざん事件で、最高検は1日、証拠隠滅容疑で逮捕した主任検事前田恒彦容疑者(43)の上司だった大坪弘道前特捜部長と佐賀元明前副部長らの再聴取を大阪市内で始めた。犯人隠避容疑での逮捕方針について同日中にも最終判断する。前田容疑者が最高検の調べに「フロッピーディスク(FD)を故意に改ざんしたと上司に伝えた」と供述していることが新たに判明。 社会総合 - エキサイトニュース 朝日新聞へのリークに関係か 大阪地検「美女検事」怒りのわけ 大阪地検特捜部の不祥事発覚は、若い検事らの周辺によるリークがきっかけだった可能性があることが分かった。週刊朝日も、新聞本体がスクープした1週間ほど前に、地検関係者から内部書類の提出を受けたことを明らかにしている。 「もう部長の顔も副部長の顔も見たくない」 「2人にものすごく腹が立っている」週刊朝日にも、大阪地検関係者から連絡 産経新聞の2010年9月29日付記事によると、不祥事を内部告発した公判担当の検事は、同僚にたびたびこう漏らしていたという。 報道によると、前田恒彦容疑者(43)が証拠のフロッピーディスクを改ざんした疑いが持ち上がったのは、1月27日の郵便不正事件初公判の直後だった。 当時、大阪地検刑事部から応援に来ていた取り調べ担当の男性検事(35)に対し、前田容疑者が「時限爆弾を仕掛けた」と日付書き換えを認めたのだ。これを問題視した男性検事は、後に公判担当となる特捜部の女性検事(41)らと同30日に特捜部の副部長や部長に対し、証拠の改ざんがあったと内部告発。そして、 9月21日になって、朝日新聞が改ざんの疑いをスクープし、不祥事が表ざたになった。 それはどうやら、若い検事らの周辺がリークした可能性があるようなのだ。 週刊朝日の9月28日発売号によると、スクープの1週間ほど前に、大阪地検関係者から編集部記者らの1人に連絡があり、改ざんを示す内部書類の提出を受けた。一方、週刊新潮は、「美女検事」らの周辺が朝日新聞の記者に改ざんをリークしたと報じており、週刊朝日のケースもあることから、検事らの関係者が新聞や週刊誌にたれ込んでいた可能性がある。 その背景には、産経が報じたような公判担当の「美女検事」らの怒りがあるようなのだ。 当時の特捜部長らは、フロッピーの日付書き換えを前田容疑者の「過失」とみなし、突っ込んだ調査も外部への公表も行わなかった。 「関西検察」、親分・子分の師弟関係 また、週刊朝日によると、前田恒彦容疑者が個人パソコンを無許可で持ち込み、書き換えソフトを入手していたことを、検事周辺とみられる地検関係者が2010年3月下旬に耳にしたという。 つまり、前田容疑者は、フロッピー改ざんのようなことを再びしようとしていたというわけだ。 さらに、若い検事らにも、左遷と思われるようなことが起きる。内部告発した女性検事が特捜部から公判部に異動になり、特捜部に移るとみられた刑事部の男性検事は異動がなかったのだ。 真相は不明だが、こうしたことが不満の引き金になり、検事周辺がリークした可能性はありそうだ。 もしこれが本当だとすると、なぜ大阪地検特捜部は、これほどまでに腐敗したのか。 元東京地検検事の大澤孝征弁護士は、特捜のおごりがあるのではと指摘する。 「筋書きに基づいて捜査するのは、いけないというわけではありません。科学で立てる仮説などと同じで、その証拠が認められないときは、別の仮説を立てるわけです。しかし、成功体験を重ねて筋書きが絶対という硬直した考えになり、被疑者がおかしいと思ったり、事実を曲げたりする倒錯した精神状態になっていた可能性があります」 また、大阪ならではの問題があるかもしれないと言う。 「人事が地元だけで回る『関西検察』の慣習があり、親分・子分の師弟関係が強く出てしまいます。つまり、軍隊組織に近く、上司にモノを言える雰囲気がなかったわけです。また、東京に対抗意識があり、負けてはいけないと突っ走るところがあったかもしれませんね」 取り調べ可視化のほか、特捜不要論まで出ていることについては、こう述べる。 「被疑者が本当のことを言わなくなるので、可視化には基本的に反対です。それは仕方ないとしても、司法取引などの導入が必要でしょう。特捜がなくなって喜ぶのは、巨悪や権力者です。どんなことがあってもなくしてはダメだと思いますね」
電子書籍&本・マンガ - エキサイトニュース
近年のお笑い番組やトーク番組の多くは、集団の中に身を置き、「笑え!」とばかりの強引なオチやギャグに手を叩いて爆笑しているスタジオの様子が放送される。 そんな番組を誰かと一緒に観ているとき、スタジオの観衆に倣って手を叩いて爆笑しないと「今どきの笑い」について行けない「ヘンなヤツ」になってしまう。まさに「空騒ぎ」の押しつけである。独りで観ていたら、何も反応しないのに・・・。 そんな私にとって、タモリ独特の「大人の遊び」が好きだ。'80年前後のオールナイトニッポン、'90年代はボキャ天、今でも見かけるタモリ倶楽部、ブラタモリ・・・、例を挙げればキリが無い。近年では、赤塚氏の葬儀で白紙の弔辞を誰にも気づかれぬように読み上げた(?)のが印象的だ。 私にとって、タモリの笑いには大人の陰翳があって、シブいというかシュールというか、色々な葛藤を抱えた中から突き抜けるバカバカしさがあって、そういう中に本当の明るさを感じ、ときに感動する。 ひと言で述べれば、「たとえ独りで凹んでいる時に観ても、つい、ムフフ^^・・・となる」笑いである。 そんな感性やネタは、「遊び」を通じて研ぎ澄まされるはずだ。 それなのに、「上澄みの結果」だけを求めて、その基盤になる「遊び」を「無駄」と称してカットせざるを得ないメディア。メーカーの感覚で言えば、研究開発費をゼロにするようなものだ。 そして売れ筋の軽薄なアイデア商品ばかり自転車操業で回転させれば、結局は芸人を使い捨てにして、メディアの目利きが衰える。かくして、世間は殺伐とした空騒ぎだけとなる。結局は、誰も幸せになれない世の中になるのだ。 タモリも大活躍!『今夜は最高な日々』で読む80年代 来月で放送開始から29年目に入る「笑っていいとも!」。この番組タイトルは、あるジャズミュージシャンの口癖に由来するという。 高平哲郎*著『今夜は最高な日々』によれば、それはこういうことらしい。 ジャズのツアーでその日の演奏を終えたジャズマンたちは、宿舎に向かうバスのなかで、ツアー・コンダクターかバンド・マネージャーから明日の予定を告げられる。明日の朝が早いと、彼らはたいてい「エー」といやな顔をした。だが、テナーサックス奏者の中村誠一だけは、スケジュールを伝えられた瞬間、明るく「いいとも!」と答えたという。 「いいとも」の開始当初からかかわっている著者が書くだけに、ここから番組のタイトルがついたというのは信憑性がある。 *高平哲郎氏の「高」は正しくは、いわゆるはしご高ですが、機種依存文字のため、本稿では「高」の字を使っています。 300ページを超えるボリュームの本書には、著者がこれまで――本書では1980年代を中心に語られる――出会った人びとについて、上記のようなエピソードが随所にちりばめられている。 著者は1970年代、創刊当初の雑誌「宝島」の編集にたずさわったのち、アイランズという事務所を設立、編集やラジオ・テレビの構成の仕事を中心に手がけるようになる。タモリとの出会いは70年代半ば、新宿のスナック「ジャックの豆の木」でのこと。その後80年代に入ると、「いいとも」や、本書の題名の元になった「今夜は最高!」といったタモリの番組を担当することになる。 もっともテレビ番組の構成の仕事は、「宝島」をやめてから生活を維持するため、仲間から誘われるがままにはじめただけで、いまだにこの肩書きにはなじめずにいるという。 そのせいなのかどうか、「今夜は最高!」で著者が台本を書いたコントは、オチがないとよく言われたそうだ。だが、オチが書かれていなくても、タモリは毎回アドリブでその場をまとめてみせた。 そのうちに、オチがあってもなくても、ディレクターはカメラを止めないで回し続けるようになる。これというのも、コントがひととおり終わってからタモリが何を言うか、どう切り回していくかを撮るためだった。タモリのおかしさを引き出そうという工夫である。 じつはこの演出方法には元ネタがある。それは、映画「社長」シリーズにおける、森繁久彌と三木のり平のシーンだ。このシーンでは監督はカットの声を出さず、2人にアドリブでやりとりをさせたという。 さて、本書のなかで個人的にもっとも興味深く読んだのは、JR東日本の車内誌「トランヴェール」の編集を手がけていた頃のくだりだ。 同誌の内容は、著者のそれまでの人脈を生かした豪華なもので、創刊号には、落語家の林家こぶ平(現・正蔵)、放送作家の河野洋、俳優の斎藤晴彦、映画評論家の野口久光、建築家の石山修武など多彩な人物が登場した。ある号では、作家の百瀬博教(のち格闘技プロデューサーとしても活躍)と、チケットがなかなかとれないことで有名な夜行特急「北斗星」の車内で行なうなど、JRの雑誌ならではの企画も行なっている。 このとき、以前からのテレビの仕事に加え、演劇やイベントにも手を染め多忙をきわめていた著者だが、かつての「宝島」のとき以上に雑誌を編集しているという実感を得ていた。 ところが、終わりは突然訪れた。著者は、まったく自分のあずかり知らぬ事情から、1991年3月号を最後に「トランヴェール」の編集からの撤退を余儀なくされたのだ。それは、JRでのブレーン会議で、某社の雑誌の女性編集長から「無駄にお金がかかりすぎている」と指摘されたことがきっかけだったという。 91 年といえば、バブルが崩壊した年だ。当事者としては、編集からの撤退にはいまだ不満が残るようだが、80年代を回顧した本書がこうしたエピソードで締めくくられているのは、じつに象徴的な気がする。それからしばらくして、雑誌もテレビも、無駄づかいを許されない、せちがらい時代へと突入していったのだから。(近藤正高)
仕事で少し勉強した事があるので、性同一性障害(GID)について知ったかぶらせて欲しい。
先ず、「ジェンダー・アイデンティティ(Gender Identity)」の障害(Dysfunction)だから、略してGIDである。ジェンダーは「性」、アイデンティティは「同一性」で、まさに直訳通りだ。 特に専門的に病態を知らされていない一般人にとって、最も偏見につながるのは、セックスの指向性や、性的倒錯と混同することだ。 要は、性には次のような切り口があって、それぞれ話が別である。 1.形態学的な性。「見た目」の性。 男性としての見た目。女性としての見た目。それぞれの性器の有無が典型的な見分け。 しかしながら、生まれながらに「半陰陽」と呼ばれる人がいる。外性器の有無と内性器の有無、乳房の発達など、男性と女性の状態がミックスされて、見た目で男女に区別できないような状態の人だ。 2.心の性。本人が自分自身をどちらの性と思っているか。 奇妙な例え話だが、ある日、目覚めたら貴方が異性の身体になっていたとする。家族を含めて周囲の人も、生まれた時から異性の側にいたという前提で扱って来る。身の回りの衣類や道具も、全て異性のモノに変わっている。 自分が信じて疑わない自身の性を主張して行動するほど、家族も社会の誰も彼もが驚き、悲しみ、奇異の目で見て、人によっては人格さえ否定して来る。 そのとき貴方は、状況を受け入れられるだろうか? 生まれて自身の心を意識できる頃から、それほどの違和感をずっと持ち続けている人が、GIDだ。 3.性的指向・セックスの相手の性 いわゆる「異性愛」と「同性愛」だ。同性愛に対する偏見やGIDとの混同が、状況を複雑にしている。 例えば、見た目が「男」で心が「女」というGIDの人がいたとする。心が女性だから、見た目も心も男性の人を異性として好きになり、セックスしたいと考えるのは、当事者にしてみれば異性愛だ。ところが、事情や基礎知識の無い人が傍から観ると、女役を好む同性愛者と受け止めてしまう。 それから、見た目が「男」で心が「女」というGIDの人と、見た目が「女」で心が「男」というGIDの人が異性愛としてカップルになる場合もあるだろうし、同性のGID同士で同性愛のカップルもいるだろう。 4.性的倒錯・セックスの嗜好 自分の性が正常でありながら、例えば異性の服装をする性癖や、セックスの際に異性の役割を演じたがる性的倒錯の嗜好を持つ人がいる。 本当のGIDと、単なる性的倒錯の判別は難しいらしい。本人も「心の揺らぎ」があって、本当にGIDなのか、自分自身の状況を見失うケースがあるようだ。そのため、慎重な手順が求められている。 同性愛と性的倒錯がミックスしている人が性転換を求めるケースと、GID治療としての性転換は根本的に異なるのだが、世間では混同している人が多いと思う。 偏見・差別・全体主義 GIDの人は増えているのではなく、社会整備が進み、GIDであることをカミングアウトできる人が増えているのだろうと思う。昔より、ずっと良くなったのかも知れない。 それにしても、GIDの理解度不足は否めない。周囲は静かに見守るべきだ。 More
そもそも結婚とは「子作り」をさせるための社会制度である。だから、同居していない事や、性生活が成立しない状況が離婚の理由になる。全ては子作りをさせるためだ。国が貧しくて手厚い社会保障制度が無い時代に、大家族の互助関係によって生活を成り立たせていたのだ。
ところが、ニッポンが経済成長を遂げて皆が豊かになり、国の社会保障制度も手厚くなって、誰もがバラバラに勝手気ままな暮らしを出来るようになった。わざわざ自分以外の誰かに気を遣ったり我慢しながら同居する必要も無くなった。 その最後の砦が結婚だったが、今や結婚する動機も無くなった。未婚のカップルの間で子供が出来た時に、非嫡出子の不利を避けるため、人道上の理由から取り敢えず「でき婚」するケースしか、結婚する人はいなくなる。しかも今後、子供手当や保育所施設など社会保障が充実するほど、「でき婚」した人達は、役所に結婚届を出してから、早々に離婚届を出すようになるはずだ。何しろ自分しか愛せない人にしてみれば、セックスの相手も、そして子供にさえも興味が無いのだ。使い終わったコンドームと同じレベルのゴミに過ぎない。 結婚する人がいなくなれば、時間と共に家族というコミュニティが無くなって行く。多勢に無勢で、家庭を持たない人の都合に合わせた社会制度へ移行するだろうから、結婚して家庭・家族を持つ事がますます不利になり、結婚する動機が完全に無くなる。「旧い考え」の奇特な一部の人だけが物珍しい目で見られながら結婚するようになるだろう。 いま親の立場にある人達の中には保守的な人も多いだろうが、いま子供の立場にある人達が親になる頃、せいぜい20~30年もしない内に、わざわざ結婚して家族を持つ人など誰もいなくなるだろう。 こういう人達が大多数を占める社会になったら、社会保障制度が変わるだろう。 例えば、夫婦別姓どころが婚姻制度そのものが廃止される。妊娠から出産までの負担を国が補償し、出来た子供を行政が引き取り、場合によってカネで買い取る制度が出来る。さらには、引き取った子供達を国が義務教育の間、集団保育して育てて、社会へ放出する。集団保育の間に様々な適正検査や教育訓練プログラムを導入して、才能のある子供を国家事業で突出した人材に育成する事も可能だ。ちなみに、「その他大勢」の子供達は、そのまま平凡で最低賃金の公務員にさせる道を用意する。究極の社会主義・共産化かも知れないが、依存心ばかりで自立心と思考能力が乏しい日本人にはお似合いだ。 これによって、子作りできる年頃になった男女は、軽い気持ちであちこち入り乱れて子作りに励むことだろうし、少なくとも少子化だけは歯止めがかかるだろう。 女性の経済力向上が、一番の理由? 20代女性に聞いた「晩婚化が進んでいると思う理由」ランキング 2010年2月23日 20時00分 日本では年々、晩婚化が進んでいるといわれています。まわりを見渡してみても、20代で結婚していない人は意外と多いのでは? 20代の女性は「晩婚化が進んでいる理由」を何だと考えているのでしょうか? ●第1位/養ってもらわなくても生きていけます。「女性の経済力が向上したから」……21.4% ○第2位/なんだか男性のパワーがなくなっている!? 「男性が草食化しているから」……17.2% ●第3位/結婚するほどお金がないんです! 「若い人の収入が低いから」……12.1% ○第4位/今後が不安で結婚が考えられない!? 「不況だから」……10.3% ●第5位/離婚や子育てなど不安がいっぱい! 「家庭に夢がもてなくなったから」……8.2% ○第6位/シングルで生きていくのもアリな時代が到来。「独身が恥ずかしいことではなくなったから」……7.5% ●第7位/女性が働くなら結婚しないほうが好都合。「結婚すると仕事に影響が出るから」……6.7% ○第8位/親ばなれ出来ていない人が増えている!? 「精神的な自立が遅くなっているから」……6.3% ●第9位/してもしなくてもあんまり変わらない!? 「社会的メリットが減ったから」……5.7% ○第10位/世話焼きしてくれる人がいない! 「お見合い結婚が減ったから」……4.5% 第1位となったのは21.4%で「女性の経済力が向上したから」でした。女性が自分の力だけで生きていける時代となってきていることが、晩婚化の原因と考えている人が多いよう。責任のある仕事をしているがゆえに、結婚の機会をうまくつかめない人もいるのかも。 17.2%で第2位となったのは「男性が草食化しているから」。まだまだ女性からプロポーズするのは難しいですよね。ぐいぐいリードしてくれる男性がいれば、いつでも結婚するのに……なんて考えている女性もいるようです。 そして第3位は12.1%で「若い人の収入が低いから」。結婚には何かとお金がかかるもの。給与の少ない若い世代が増えている昨今、結婚へのハードルがどんどん上がっているようです。 今の時代、結婚だけが幸せではなくなっています。でも、支え合っていける伴侶と出会えたら、一緒に暮らしていくのも素敵なことですよね! ※『escala cafe』にて2009年12月にWebアンケート。有効回答数331件(escala cafe会員:21歳・29歳の働く女性)。
NHKスペシャル「無縁社会 ~“無縁死” 3万2000人の衝撃~」は当然の現実と思って観ていた。
かつて私は大原麗子の孤独死報道に対し、昨年8月9日付のブログで「今後、孤独死は日本の日常になる。」と題して、日本人の身勝手な生き様と孤独死の日常化を関連づけて書いた。 その中で、「今後、日本中で孤独死した人達の死臭が日常的に街に漂うようになり、ゴミ収集車並みの普通の光景として、孤独死した人達を片づける行政や委託先の職員の姿が日常になるだろう。」と書いた。 何年後とは予言しなかったが、あと5~10年でそうなる気がして来た。 こんな現実に向き合えない人が、何を今さらと思う。 これは現実だ。 現実に起きている事実にカメラを向けたNHKに対して、「誰トク(誰が得する)の番組なんだよ」「キツすぎる」「ホントに見なきゃ良かった」と非難する人は、文字通り「臭いモノにフタをする」人であって、状況に向き合えていない。 「強い者は生き残れない」 (吉村 仁 著・新潮選書 ISBN: 978-4-10-603652-1) という本を紹介したい。 ![]() タイトルからは弱者に救いがありそうだが、著者の論点は厳しい現実だ。すなわち、 「強いものが生き残るのではなく、環境変化に対応できたものだけが生き残る」 と言っている。私は、この論点に共感している。典型的な例は、恐竜が絶滅した一方で、ゴキブリが絶滅しない事実だ。量販店は周辺の商店を次々と廃業に追い込むが、やがて撤退する量販店が現れる一方、しぶとく淡々と商いを続ける商店や汚いラーメン屋がいる。 盛者必衰の理・・・と琵琶の弾き語りを聴くまでもなく、ローマ帝国も平家も清朝も江戸幕府も滅びたし、リーマンをはじめ、GMやクライスラー、日航も倒産した。スーパードライが出て来る前のビール市場はキリンラガー一色だった。ビール雪印だって牛乳の品質不良や偽装事件をきっかけに一発で市場から退出した。かつてクルマの都であり、モータウンと呼ばれたデトロイトだって、最近の報道を観るとゴーストタウンのように見える。 結果が出た後から、ごもっともな理屈と評論は私でも言えるが、隆盛を誇った当時に没落を想像できる人がいただろうか? 環境変化に適応できない生物は、情け容赦なく絶滅して来た。人間だって、そうなるかも知れない。 国も組織も会社も市場も、そして一人ひとりの個人も、とりまく環境は情け容赦なく変化する。環境変化を嘆いても恨んでも逃げても、政治がどうなろうが、とにかく適応できなければ死ぬのだ。 NHKの番組は、「誰トク(誰が得する)の番組なんだよ」と言った人の得にはならないだろうが、番組の問題提起に向き合って、何とかしようと考える人がいたとすれば、そういう人が得した事になるはずだ。 「オマエはどうなんだよ?」という突っ込みがあるかも知れない。 私は「野垂れ死に」の「孤独死」を覚悟している。知人はもとより、配偶者や子孫を含めて疎遠な親類に義理事で負担をかけさせたくない。世間の迷惑にならず、出来れば世間の役に立つに越したことはないので、「献体の無縁仏」コースとなるようにあらかじめ段取りしておこうかな、と思う。今から覚悟を決めておかないと、心の整理がつかないと思うからだ。 志が低くセンスが乏しい医者の卵に切り刻まれたら、化けて出て医者になれないようにするのも一興だ。 More
GID(性同一性障害)は、性的倒錯とは全く異なる先天的な疾患だ。
もし、貴方が性的に極めてノーマルだったとして、ある日突然、目が覚めたら自分自身の見た目が異性になっていたとする。家族をはじめ周囲からも普通に異性扱いされてしまう。おそらく、違和感があるはずだ。何しろ、自分自身が考えている本来の性の姿に従って行動すると、世間から変態扱いされてしまうのだ。むしろ性的指向が保守的であるほど、その違和感は強いはずだ。そんな「もしもの世界」を自分自身に置き換えて、GIDの当事者に向き合うべきだ。 同じ立場になれない以上、当事者に対する共感も同情も失礼である。だが、とにかく偏見は人道に反する。私は、GIDに限らず疾患の当事者の苦痛に無遠慮な軽口や偏見に満ちた言葉を耳目にすると、許し難い気持ちが込み上げて来る。 今やGIDは、科学的な検討結果にもとづく診断手順や治療法が医学的に厳格に定められ、性別の取り扱いや変更手順も法的に定められている。それから、埼玉医大は現代のGID治療の先駆者であり、中心的存在となった医療機関で、自ずと埼玉県のGIDに対する理解は比較的高いと思われる。この報道も、埼玉県のGIDに対する理解とサポートのレベルの高さを示している。他の都道府県も見習って欲しい、という書き手の願いが込められているのではないだろうか? 何はともあれ、当事者の周囲は普通に温かく見守るべきだ。GIDに限らず疾患に対する無知と偏見は、自分自身の立場を貶める事になる。 それにしても気の毒なのは、たとえ形態学的(見た目)・法的に性を変更できたとしても、自然な生殖能力が得られない事だ。世の中には、先天的に生殖能力が得られない人がいる。自然な生殖能力のある男女は、その有難味を厳粛に受け止めて天に感謝すべきだ。 日本では、誰もが無事と平和を当たり前のように享受しているが、無事でいるのは奇跡的で有難い事だと思う。本来、生き物は「生きてるだけで丸儲け」なのだ。 小2男児、途中から「女児」に 埼玉、性同一性障害で 2010年2月12日 18時21分 心と体の性が一致しない性同一性障害と診断された小学2年の男児(8)について、埼玉県内の公立小学校が昨年9月から、女児としての通学を認めたことが12日、地元教育委員会への取材で分かった。兵庫県の小学校が、入学当初から男児を女児として受け入れた例はあるが、在学中に性別を変えるケースは極めて珍しいとみられる。教委の担当者は「児童が安心して学校に通えるよう配慮した」と話している。 < 前のページ次のページ >
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