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「震災直後から不明 奥山リポーター遺体で発見か」
「 浅田真央選手の母死去=帰国も間に合わず―女子フィギュア」 という記事を見かけた。 どちらも惜しまれる早い旅立ち。先ずは故人のご冥福をお祈りし、故人を惜しむ近しい人達にお悔やみ申し上げます。 人生の最期に対して、人生の幸・不幸を語るには準備不足で、特に何をもって「幸せ」とするかは人それぞれだし私の考えを披瀝する気もない。だが、「不幸」はワリと一般化し易いと思う。世間の人達も、「幸せになりたい」などと口で言いながら、実は「幸せ」についてキチンと語り、実現に向けてキチンと生き方を創って実行し続けている人は限られるはずで、多くの人は「取り敢えず不幸を避ける」生き方を選びながら漫然と過ごしていると思う。 では、人生の最期たる「死」について、「幸・不幸」をどう考えるか? 大往生と言われて惜しまれるように100歳を大幅に超えて、子・孫・ひ孫・玄孫・・・と自分の血を引く大家族に見守られながら、自宅で快適な環境で長年慣れ親しんだ自分の布団の上で老衰で眠るように静かに昇天する。そのうえ、相続やら何やら「ヤヤこしい話」は全て円満に段取りがついている状態。お通夜や告別式は格式の高さや家系の重みを感じさせながら、嫌味が無く近所や知人など親族以外の参列多数。しめやかに、ほほえましく儀式を終えて、良好なロケーションの綺麗に整備された墓地に埋葬され、格調高い戒名をつけられ、セレブな雰囲気の仏間・仏壇に収まる。これが、世間体としては「幸せ」な最期なのだろう。 逆に言えば、上記の死に様の反対が「不幸」な最期だ。すなわち、若い内の孤独死や、天変地異・紛争・事件・事故にともなう損壊の激しい死に方、葬儀もされず、生前の本人を知る者が誰も知らない内に、遺体というより単なる「死体」として「処分」されたり、それすら叶わず、誰も知らない所で朽ち果てている状態が、「不幸」と受け止める人は比較的多いと思う。 少なくとも、若くして死ぬこと自体は不幸と思えないし、長生きするのが「幸せ」とも思えない。何か達成してから死ぬよりも、「非業の死」などと言われるが、夢や目標の達成に向けて進んでいる途中で将来を期待しながら死ぬのが最もラクである。 今どき「ラク」で「快適」、「オイシく」て、「深く考えない」生き方を「追求する」というより「選択する」人が多いと思うが、そのくせ「安心・安全」で「死にたくない」「長生きしたい」と言う。私から見れば軽薄の極みだ。少なくとも軽薄な生き様の末に「長生き」して不幸になることはあれども「幸せ」な最期なんて想像できない。 かくして、「人生は太く、短く」済ませるのが最も「不幸でない」最期と考えている。いずれ基礎体力の不足や生活習慣病の深刻化と共に日本人の平均寿命は低下して行くだろうが、それは良い事だ。 More
”こんな日本に誰がした? シューカツ生は「クローン人間」か”というタイトルに釣られて記事を読んでしまった。
言いたい事から書けば、「悪者探し」は不毛だ。タイトルに書いた通り、「リスク回避」の志向に原因がある。その本質は「恐怖心」であり、恐怖心を抱かせたのは求人側を含めた社会全体の構造的問題である。 何しろ、今どき「挑戦すること」よりも「失敗しないこと」が最重要である。メディアは何かと「勝ち組・負け組」に仕分けて「勝ち負け」を煽るが、多くの平凡な日本人は「勝ちたい」のではない。ただひたすら「安心・安全」を望んでいて、「(負けて)失うことへの恐怖心」が行動の動機になっている。 就職事情で言えば、とにかく「堕ちたら、どこまで堕ちるか・・・底なしの奈落の底。復活はノーチャンス。」である。それが就職の現実として認知されているわけで、新卒の就職事情や若者気質を変えるには、この恐怖心を払拭することが本質だろう。 その点、就活学生の没個性を嘆く企業やメディアは勝手に過ぎる。企業だって「失敗」して「失うこと」への恐怖心から、「実績」のある者や企画に偏り、結果的に没個性で横並びな商品やサービスばかりになっているのではないか?TV番組やアニメだって、そうではないのか?挑戦的で完全にオリジナルな企画の作品が、果たしてどれだけあるのだろうか?しかも、そういう革新的な商品やサービス、作品の中に、世界を変えるほど影響を与えて、国内や世界の経済を変えるほどの成功を収めた者がいるのだろうか?せいぜい、スティーブが遺した製品コンセプトを後追いし、便乗して、あるいは評論しているだけじゃないのか? 社会や企業がいくら総論として「個性」や「挑戦」を掲げようとも、各論で企業にいる者が保身を動機に物事を判断している以上、個性も挑戦も虚しい絵空事である。企業側が没個性な学生に嫌気が差して、本気で学生の個性を見極めたければ、面接案内に「リクルート用スーツの着用や整髪・メイクを禁止し、通学時と同じ身なりで来社すること」と明記すれば良い。私なら「あなたが当社に通勤する場合に希望する身なりで来社すること」というテーマを与える。企業の研究や理解度をはじめ、本人の価値観や個性が少しは見えて来る気がする。その程度の対応さえリスクを恐れて出来ない企業が学生に多くを求めるのは矛盾している。 大卒の就職を希望する新卒者は約37万人と推定されており、内定者数が約34万人弱とのこと。多くの平凡な就活生は、約9%の就職浪人になりたくない一心だと思う。 「窮鼠猫を噛む」じゃないが、いっそのこと9割が就職できない状況になれば、居直って挑戦的に立ち振る舞う者が現れるかも知れないが、1割弱が就職できない状況というのは微妙である。「敢えて挑戦しなくても、無難にミスさえしなければ、9割の側として、どこかに就職できる」と考えてしまうのが堅実な日本人の発想になるのではないか? 何しろ大多数の学力平凡な日本人は、中学生の頃から進学指導で堅実に合格する学校を受験するようにすり込まれていて、どれほど無謀でも難関校に高い目標を定める、という挑戦的な発想の芽を摘み取られて育っている。とにかく「無難に」生きる事をすり込まれているのだから、リスク回避志向が身なりの横並びにつながるのは当然の帰結だ。だからと言って中学や高校の進路指導者を責めても不毛である。公務員系の「でも・しか教諭」こそ、「リスク回避」を最大の動機とする立場であり、そういう教育を当然と受け止める親の多くも子供に「リスク回避」で「安心・安全の無難な人生」を期待しているのだ。これは社会全体の構造的な問題で、政治家や有識者をはじめ、文部科学省や教育委員会、PTAや日教組が何をしようとも無理である。 何故ならば、「リスク回避」こそ「日本人の心」であり、「安心・安全」を求める平凡な大多数の日本人にとって動機の本質だからである。バブル崩壊後の「右肩下がり」の時代を迎えてから、皮肉なことに「リスク回避」で「安心・安全」を追求する志向が「閉塞感の連鎖」という無限ループと「縮み志向」の悪循環を生んでいるわけだ。 じゃあ・・・、取り敢えず現に就活中の学生は、どうすれば良いのか? 当事者たる就活学生が自ら突き抜けるしかない。ビジネスの世界で言われている事が、そっくり当てはまる。すなわち「常識を疑え」というのが第一歩だろう。 大学の就職指導や就職情報サイトで教わる「マナー」が没個性につながっているのは明らか。かといって、奇抜な格好で自己主張して目立つばかりが個性じゃない。 ビジネスは「売り手よし ・ 買い手よし ・ 世間よし」の「三方良し」である。そういう身なりで面接に行けば良いではないか?「キミは、どうしてその格好で面接に来たの?」と質問されたら、しめたものだ。私なら、次のように応える。 「リクルート・スーツでは就職活動が終わるまで、せいぜい新人研修の間までしか着れないと考えて、入社してからも着られる服を選びました。」 あとは空気を読んで、本当にそういう気持ちがあるなら、「この服で貴社に通勤し、○○部門で活躍したい、という願いを込めました。」と付け足すかどうか・・・である。本気で思ってなければ、これほど「鼻持ちならぬ嫌味な言い方」は無いので、心底そう思っていることがポイントである。 大事なのは、身なり自体の問題でなく、「自身の創意工夫で決めたこと」が伝わるかどうかである。本人の趣味の範囲内(売り手よし)、会社にとって好感が持てて(買い手よし)、その会社の社員として恥ずかしくない格好(世間よし)を、自身の知恵と価値観でバランスを取って決めれば良い。 会社側(面接者)が、どう見るか読み切れないと不安に考えて思考停止に陥る者はいるだろうが、私なら、その会社の出退勤時間帯に出入りする社員の様子を観たり、面接の前に見学の機会があれば狙いの部門のフロアを見渡して、傾向を見極める。ビジネスと思えば売り込み先の事前リサーチは当然である。 そういう手順やバランスの優先度といった判断すら自身の頭で決められない人は、万がいち就職できても、就職してから辛いだろう。 More
「皇室典範」や「愛子さま」報道の度に、ネット上では両極端な罵詈雑言が書き込まれる。
思想信条も言論も憲法で自由が保証されているが、わざわざネット上に天皇家への無関心や罵詈雑言を書き込む人は、左右の思想信条に分類するまでもなく、単に本人の境遇に対する不満や不安、自信の欠如を転化しているだけの「甘えた人」である。 日本人の伝統的な精神構造は「甘え」にあると考えているが、そういう観点から言うと、天皇は「甘えの対象」としての「象徴」である。 すなわち、左右のどちらから何を言おうとも、大多数の日本人は誰かに甘える事で精神の均衡を保っている。国民全ての甘えた感情の対象として、天皇をはじめ皇族は「日本人の甘え」を寛容な気持ちで一身に受け止めている。その社会的使命の重圧とストレスは凡人には耐えられないはずだ。だから、健康管理について恵まれた万全の体制にもかかわらず、皇族の多くが体調を崩すのだと思う。 そういう立場の人に対して「人としての心からの敬意」を示す事こそ、皇族に対して取るべき態度ではないか?
しばしばネウヨの定義や判別が不鮮明と指摘されている。
匿名によるネット上の言論は「無責任」であることが本質だ。言論の先鋭化や過激化を抑える要素は「責任」と「人としての抑制感情」にあると思うが、責任が無いうえ感情が逆に増長させる事もあり、「甘えた精神構造」が妄想とともに無限大に膨らむ。 しかも、日本人の伝統的な精神構造に「甘え」があるのは、過去の名著を紹介するまでもない。諸外国と比べて日本のネット世論に現実の行動が伴わないとすれば、その理由は「甘えの構造」にあると思われる。 ネウヨの定義を根拠にもとづき論理的に書くには未だ材料不足だが、このほど「天皇誕生日の一般参賀要領」が報じられたのを見て、ネウヨの判別が端的に出来る気がした。すなわち、ネウヨはネット上の虚言だけでリアルの行動を伴わないから、一般参賀には行かないと考えられる。 一方、一般参賀で皇居に行き、日の丸を振って天皇に向かって万歳三唱する人こそ、半分リアルな「ウヨク」と判別できる。 なお、真正の右翼は実名を晒して天皇賛美をする人だろう。
「女子高生 世界初の発見 米科学雑誌も紹介」という報道があった。
詳細については下記のブログ記事がとてもスマート。 高校化学部の女学生が新発見 しかも英文で査読付き論文に投稿 勝因は几帳面でなかったことと観察眼 田中耕一氏がノーベル賞を受賞した研究も有名だが、企業の新技術・研究開発も含めて、このようなエピソードは多々あると思っている。 世界初の新発見につながり、結果オーライだったから今となっては称賛されるが、その時に何も起きなかった場合や、あるいは異変を見過ごしていたら、どうなっていたか?恐らく、現場の5S(整理・整頓・清潔・清掃・躾)を乱す問題行動として管理監督者から注意され、もしくは怒られ、厳しい管理者なら担当を外すだろう。 何故ならば、5Sが出来ない人は「危険」だからだ。だらしない処置のせいで、いつ事故を起こされるか・・・。管理監督者の立場にしてみれば、気が気でない。神経質な管理者なら、「安心・安全」を担保するために、そういう人には担当を外して作業させないようにする。だらしないスタッフが起こした事故のせいで責任を取らされたくない・・・、という自己保身が最優先される。 実は、企業や様々な施設の管理者・責任者はもとより、教育関係者、地方・中央の公務員・官僚・・・と、日本中の誰も彼もが程度の差はあれ、このような発想をするものだ。そして、社会が求める「安心・安全」を担保するためという大義のもと、実は自己保身のために、彼らは新発見やブレークスルーの可能性の芽を摘んでいるはずだ。 世界初の新発見をした高校生は、急いでライブを見に行く一心で、実験の後片付けをしないで翌日まで放置した。高校生が異変に気づき、管理監督者である部活の担当教師が「新発見の可能性」を考慮して学会発表へ導いたから結果的に称賛される結果に至った。 これは日本における奇跡である。普通ならどうなるか?大多数の人は、後片づけが出来てなかった事を怒られたくない一心で思考停止状態にある。自ずと異変に気づかないし、仮に気づいても気に留めない。そもそも「真面目な人」ほど遊びに行く事よりも目前の実験と作業を無事に型通り終える事を優先し、テキパキと作業をこなして想定通りの結果を確認次第、追跡調査など発想すらしないでサッサと実験装置を片づけることだろう。 一方、大多数の管理者は、だらしない作業者を注意し、あるいは叱責して、異変の報告を受けても気に留めず、「何も無かった事」にするだろう。 すなわち、「安心・安全」を追求することは、「新発見」など「未来の夢」を摘むことになるのだ。
「家政婦のミタ」が秋最高更新、第7話の視聴率は23.5%で独走状態続く・・・という記事を見かけて、憂鬱になった。
こういうドラマを面白いフィクションだと思って観ている内は良いが、いつの時代もドラマの内容通りに実践する「勘違いな人」が現れるハズだ。しかも、今どきは社会の自浄作用が働かず、「勘違いな人」の異常で非常識な言動が「フツーの事」になるから、観ていると気が滅入る。 子供が学校で悪ノリして真似をするが、いずれ見境が無くなりフツーになる。勘違いしたモンスターペアレント(モンペ)が本気でドラマの1シーンを実行し始める・・・。お笑い番組の悪ノリしたツッコミや、ドラマで流行った決めセリフなど・・・、必ずマネがブームになり、いずれ定番化してフツーの言動になり、あるいはイジりが増長して深刻なイジメになって行く例は多い。 そう思うと、こういうドラマの視聴率が好調と報じられて、ますます視聴率を上げるほど憂鬱になるのだ。
「今のアニメはコピーのコピーのコピー」「表現といえない」 という押井守監督の発言が物議を醸しているという記事を見かけた。
私が思うに、アニメが「現実逃避」に走り過ぎて陳腐化した。そりゃそうでしょう?バブル期以来20年も「失われた時代」を過ごして来たわけで、「現実逃避しないと生きて行けない人達」こそ、アニメのコアな顧客なのだから。 自室に引きこもり、あるいはアニメの聖地で似た者同士が群れながら、現実逃避のアニメに耽溺して余生を送りたいと願っている人達に向かって、彼らの心の支えとなるアニメ作品に文句を言って神経を逆撫ですれば、逆ギレするのは当然だ。当事者以外にしてみれば「どーでも良い事」にこだわり、微妙なこだわりに心をときめかせて「萌える」のがオタクたる所以だ。そこにちょっかいを出して「心の支え」を踏みにじられたら、過剰反応するのは当然である。 逆に近未来像を「現実直視」するアニメを創ったらどうなるか?現状の延長線上に近未来像を描けば、それは間違いなく悲観的な将来像となるだろう。もし、バラ色の将来像を、観る側がシラけずに鑑賞できるほどリアルに描けたらヒットするかも?とても困難で挑戦的なテーマである。 とりあえず悲観的でお先真っ暗な問題提起型な「現実直視」アニメを創ったら、そもそも誰も観ないだろうし、それでも観た人は暗澹たる気分になり心が折れて鬱病になるだろうから、ビジネスとして成立しない。 現状のアニメ界が産業として肥大化し、今さら採算上のリスクを誰も取れない以上、不採算でも敢えて挑戦的な創造をする人は誰もいない。ジブリでさえ苦悩しているじゃないか? 結局、肥大化した日本のアニメ界において、「新たな創造」は終わったのだ。 今後、海外で挑戦的で全く新しい創造的なアニメが日本でウケたら、こぞってマネをするしか日本のアニメ界に道は無い。元々、日本人は総じて「創造力」が乏しく、実績の無い創造的な物事を自身の目利きで評価する能力が無い。わずかな例外の人達がたまたま幸運に恵まれて突き抜けられた結果、海外で評価されたり、ビジネス面で良い結果を出すと、手のひらを返すようにチヤホヤ賞賛する。それが今も昔も日本人の性根である。 「安心・安全」が最優先で、誰もリスクを冒さない。「リスク回避」で「実績第一」。 頭を使わずに実績のあるルーチンワークの選択しか出来ず、ルーチンワークに注力することを「努力」と称し、「工夫」と「創造力」はとっくに退化している。 しかも、総じて日本人は「挑戦」が大嫌いである。「出る杭は打たれる」という諺こそ日本人の性根だ。 挑戦する者を蔑み、敬遠し、突っ込み所を見つけては挑戦者を寄ってたかった袋叩きにして、挑戦者の心が折れるようにする。しかし、出過ぎた杭は尊敬される。突き抜けて優秀な結果を出すと、節操なく賞賛し、急に親しげに近寄る。それが日本人の性根である。 アニメに限らず、日本人なら自身や身の回りで思い当たる人や場面は多いのではないか? More
高度成長期の典型的なサラリーマン家庭にとってのライフプランは、次のようなものだった。
~20代前半: 大学卒業・終身雇用が前提の企業へ就職・生活基盤づくり 25~30歳: 結婚、結婚2年以内に第1子、1~2学年違いの第2子を得る。 自身と同じように大卒で就職するまで我が子を養育するには、定年までに就職してもらわないと経済的に成立しないと考えたからだ。往時のサラリーマンの定年は多くの企業で55±5歳だったから、落第・浪人なく22歳で4年制の学部卒業を前提に逆算すると、末っ子の誕生が定年50歳なら28歳、定年60歳なら38歳までが限界と考えた。 30代で持ち家取得、20年で完済。もしくは定年退職金で完済。 定年後の人生設計など考える余裕が無かったが、とりあえず持ち家とカネを確保しておけば何とかなると考えた。しかもバブル崩壊前の時代感覚だと、持ち家は土地の資産価値が上昇して含み益が出るという漠然とした前提があり、その含み益を確保しながら、日々の最低現の生活費は年金を充当すれば良いと考えた。資産運用益や積立保険の満期返金などがあれば、旅行や孫の小遣い、子供への資金援助になると考えた。介護や老人ホーム等の施設が必要になれば、持ち家(土地)を現金化するなり賃貸に出すなりして財源にすれば良いと考えた。 だが、現代は以上の前提や価値観が総崩れになっている。 先ず、大卒・終身雇用型企業への就職という前提が成立しなくなっている。30代までに生活基盤を固められる人は限定的だし、その時期に結婚して子供を得るという価値観がなくなっている。生活に追われるなら自身の生活を楽しむ方に価値があるし、その前に、ここ20年は楽しむ前に生活基盤が不安定で、それどころじゃない。 一方、医学的・生理学的に大きく変えられない現実は、女性の出産年齢である。男女平等の精神は尊重するが、出産は平等に同じ経験ができない。 逐一例を挙げるとキリがないが、世の中のストレスや社会問題の多くは、前提が崩れているのに旧時代のライフプランを「あるべき姿」にしているから不毛な議論になるのだ。それから、言わずもがなの「社会通念」という前提が解決を阻んでいる。 例えば、「結婚する男女は同世代か、数歳違い」という一般的な感覚である。「夫婦は共に同じ時代を生きるべき」、という前提があるのではないだろうか?実は、それほど拘らなくて良いと思えば、選択肢が広まる。 そこで、いま20代前半で学生以下の世代にいる日本男性へ、次のようなライフプランを提唱したい。 就職~定年: 生活基盤と老後の資産形成に励む。結婚しない。そのポイントは次の2点。 1.異性や家庭に一切の労力を割かないこと。 2.生理現象としての性欲処理は自慰か短時間で完了するサービスに委ねること。 3.将来的に稼ぐネタや資産形成にならない趣味を避けて、 そのような趣味に一切の消費をしないこと。 例えばオタク系の趣味なら、収集したコレクションに資産形成の意義があるなら良いが、コンサートやライブなど「思い出」にしかならず換金できない事には、極力消費しないこと。 食べ歩きなどグルメの趣味なら、評論家やプロデューサー、飲食店の開業など将来に黒字経営で安定収入を得るレベルを目的にするなら意義はあるが、単なる消費であれば避けること。 将来、骨董品など資産形成に役立つモノ以外の耐久消費財への消費を最小限に抑えること。家電製品やクルマ、衣類はもとより、持ち家も耐久消費財である。なお、耐久消費財選択のポイントは、言うまでもなく初期費用が安いに越したことは無いが、「安物買いの銭失い」とならぬよう、特に何年も使用するモノであれば維持費と耐久性・信頼性を重視すべきである。 要は廃却するモノを極小化できるライフスタイルである。なるべく「使い尽くして、使えなくなって、捨てる」モノだけで済むようにして、単に「古臭くなった」「気が変わった」「生活ステージが変わった」という情緒的な理由で捨てるようなモノは、「最初から買わないで済むように」すべきである。 そして、どうしても「結婚」してまで異性が欲しくて、あるいは自身の子孫を遺したければ、老後の資産形成と子孫の養育費の財源づくりに成功した上で、定年退職してから、若い出産適齢期の女性と結婚すれば良いのだ。老後に生活基盤を確保している中で20代女性と誰はばかる事なく暮らせるのは、大多数の男性諸氏にとって無常の悦びであろう。ライフプランの主流となれば、自ずと女子教育のあり方も古典的なものに原点回帰して行くだろう。男女平等は尊重するが、結局は需給の力関係で物事は決まるのだ。最近の高齢男性芸能人による数々の結婚報道は好奇の目で論評されているが、極めて先進的で合理的なものである。 そうなると、子供が就職する前に妻子を残して男が先に逝ってしまう可能性が極めて高い。それを不安視したり、男性側のエゴだ無責任だと批判する者が現れる。だが、そのようなリスクは抑えられるし、何よりもメリットの方が大きい。何しろ先述のように社会通念の前提を外せば、現実には問題として成立しないのだ。 そもそも、女性は出産適齢期を過ぎて子育てに目処がつく頃より配偶者から精神的に自立したがるものである。寂しがり屋で誰かに依存しないと生きられない、という中高年女性は極めて限定的であり、大多数の女性は表向きか弱く悲しい表情をしていても、内心は解放感で歓喜している。 したがって、その頃までに配偶者がこの世を去るのは好都合である。女性は悲しみを引きずらず直ちに立ち直るので、基本的にケアは不要だ。高額の保険金をかけておけば、当座の生活資金にも困らないし、子育てが完了していなければ、その財源に充てる事もできる。 なお、中高年女性の性的な処理は人により両極端に分かれるだろうが、積極的な女性は男娼やホストのサービスを利用するなり、世間に数多いる熟女志向の男を適当にツマミ食いすれば済む。何と言っても婚姻といった法的拘束や子育ての道義的な拘束がない立場で、医学的にも妊娠を心配しないで済む年齢なら、伸び伸びと性を解放できる快感は物凄いだろう。何もかも合理的である。 かくして少子化に歯止めをかけながら、全ての立場が円満に満足し、円滑なライフプランの移行が出来るわけだ。めでたし、めでたし。
某メーカーの担当者と懇談の際、「技術系の中途採用で何人か面接したが、いずれも不採用にした」という話を聞いた。面接相手はいずれも20歳代後半の大卒、それなりの職歴を持っていたようだ。不採用にした経緯は色々あったようだが、印象的なのは次の2つ。
1.会社側に対して仕事の内容に関する興味や質問が全くなく、処遇と「残業はあるのか?」といった条件面ばかり尋ねる。 今どき良くある話。いかに素晴らしいプロフィールでも、絶対に採用したくないタイプだ。何で採用されないのか解らない人は、一生ずっと採用されなくても仕方ないと思う。 私が思うに、「自分の事しか愛せないタイプ」の典型である。異性へ一方的に手前勝手な条件を求めるばかりで、「(結婚)相手がいない」と嘆くようなものだ。こういうタイプの人に見られる他の特徴は、 ・ 自分との1次的な関連でしか物事を評価・判断できず、副次的な影響に関心が持てない。 ・ 自信を勘違いし、尊大な態度を取る。 ・ 自己を過大評価、相手を格下扱いする。 ・ 丁寧な物言いをしているようだが、実は慇懃無礼で「上から目線」の本音が透けて見える。 2.「教えて下さい、何でもやります。」という懸命な物言い。 これも今どき良くある「思考停止」タイプ。底にあるのは「自己愛」だ。謙虚でひたむき、従順な態度を演出するが、「教えた作業」の範囲内で「言われた事」しか出来ない。 単純作業のルーチン業務ならともかく、今どき研究・開発を担当する正社員の立場で「思考停止」は致命的。「猫の手も借りたい」ほど忙しい局面で、「1つ言って10を解り自ら動けない人」へ、いちいち手取り足取り、上げ膳据え膳するくらいなら、自分でサッサとやる方がマシである。「猫の手」にもならぬ邪魔者に毎年何百万もの人件費を割くなら、今いるスタッフの給料を積み増して頑張ってもらう方が安上がりだ。 しかも、こういうタイプの人を「真面目に一生懸命やってくれそうだから」と思って採用すると、次のような痛い目に遭う。 ・ 機転が利かず、平気でボーっとする。空気が読めない。読まない。読む気もない。極論すれば、大地震が来て津波が来る状況でも「指示」が無くて「逃げ方」を教えてもらわないと、「何をすべきか」考えられず、平気でそのままボーっと居座る人である。仕事の多くは「何かが起きて」、あるいは「何かを起こして」、それに機敏に対応する事の連続だ。来客があれば、用件を伺い、アポ先につなぎ、面談場所へ導き、お茶を入れて勧める。どのみち業務マニュアルを読む気も無いクセに、マニュアルに無い事態に対して何をすべきかイメージ出来ず、文句を言えば「教わってない・指示が無いから出来ない」と居直る人は、特に研究・開発のような部門では致命的である。 ・ 自ずと仕事が停滞するので責めると、「そのような指示は無かった。」「仕事の方法や手順を教わっていない。」と、全身全霊をかけて、ごもっともな言い訳をする。その知恵に割く能力を仕事そのものに注力してくれたら、良い結果が得られると思うが・・・。 本人はサボっている気がなく、心底、一生懸命やっているつもりだから、何か言えば傷ついて過剰に凹むか、逆ギレする。悪気が無く、正しいと信じているので反省する気もなく始末が悪い。 5百万円の機器は所期の性能が得られなければ下取りに出すなり改良するなり、最悪でも1千万の設備投資をパーにするだけでカネの流出は済むが、4百万円で人を採用し諸々の社会保障や教育訓練、福利厚生コストをつけて5百万かけた挙句、何年も役立たずが続けば、5百万の機器をパーにするより甚大な資金流出を招く。数十円や百円単位の経費削減に日々努めながら、そういう人材を採用することがいかにリスキーか。それなら人手不足でも採用しない方がマシ、自分でやった方がマシ、という判断になるわけだ。 ここまで書くと、「『自己愛』と言うが、お互い様だろ?採用する側だって、会社の都合ばかり押しつけてるじゃないか?労働力の搾取じゃないか?」ということになり、逆ギレした人達が職場を「ブラック企業」と一方的に決めつけ、2chなど裏で騒ぎ立てる。需給のミスマッチ極まる・・・だ。 かくして結婚願望がありながら「婚活」が成就せず婚姻率が低下して行く状況と、就職難・採用難のミスマッチは、本質的に同じ問題と考える次第である。 あらゆる人間関係、コミュニティ、仕事など、何につけても「自分を活かして、自分の力で相手を活かす」という互恵的で互敬的(造語)な相互関係こそ、「生きる」ことだと思うのだが、そういう「あるべき姿」を「有り得ない空論」と決めつけ、最初から信じようともしない前提が日本人の性根にある。 それをバブル崩壊後のリストラで崩壊した「家族的な日本型企業経営像」のトラウマに結びつける気は全くない。労使関係における依存心の裏返しとなる性悪説と疑心暗鬼は、元より日本人が持っていた性根。バブル崩壊までは右肩上がりの経済成長がマスキングしていただけのことである。
"Stay Hungry. Stay Foolish." (ハングリーであれ。愚か者であれ)と説いた、今は亡きスティーブ・ジョブズ氏。少なからぬ日本人が共感し勇気づけられ、生前の業績に対して称賛の声をあげている。私も、その一人だ。だが、皮肉な事に現実の日本人は多くが着々と真逆の姿になっている。
すなわち、ハングリーな人を「何アツくなってるんだよ?」とからかい、「何をやってもダメ、先が見えている」と涼しい顔して他人のチャレンジに悲観的な評論をしてダメ出しする「賢い日本人」が着実に増えていると確信する。今どき大多数の日本人は「空気を読み」、賢く振る舞い、小さな挑戦さえ敬遠する。 そのくせ「突き抜けた」実績を出した者には、手のひらを返して盲目的に尊敬し、カリスマ扱いする。でも、落ち目になれば「やっぱりね~、あんなのダメだと思ってたよ!」と酷評してボコボコにする。 これが日本人の性根である。 ただし、突き抜ける人は古今東西を問わず、悲観的な「空気感」のなか、この程度の罵詈雑言や嘲笑、悪意に満ちた邪魔、そして無視と孤独があれども、心が折れることなく成功するまで諦めずに集中し続けるのだろう。 勇気と自信を併せ持つ志ある日本人なら、国内に絶望し海外へ活路を求めるのが自然な展開だろうが、一部のアスリートのような例外を除けば、総じて若い日本人ほど海外志向が乏しいようだ。 自虐を込めて「ますます内向き、自分大好き。」 絶望ニッポン! 経済総合 - エキサイトニュース More < 前のページ次のページ >
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