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私は何でも物事を悲観的に捉える。自他共に認める暗いヤツだ。
しかも私の本音が顔に出て傍目に直ぐバレるから、誰からも距離を置かれる。 リアルなコミュニティの中では出来る限り調子を合わせているが、疲れて顔に出る。 調子が良くて皆が浮かれている時ほど、内心はブルーになる。 絶頂とは下降と衰退、ひいては滅亡の始まりだからだ。 堕ちる恐怖と絶望を味わうくらいなら、絶頂を先延ばしにして苦しみ登り続ける方がマシだ。 苦しくても上を向いて歩く方が楽しい。 ホントかどうか知らないが、登山で起こる遭難は下山途中の方が多いと聞く。 飛行機は離陸より着陸の方が難しいと聞く。 賞賛すべき事を成し遂げても、晩節を汚した人は多い。 私は一度きりの人生で何を成し遂げたいわけでもない。ただ、生きたい。 それから、周りになるべく迷惑をかけず、晩節を汚さず、出来れば誰かの役に立ってから、綺麗に死にたい。 しかし、これは矛盾しまくりで調子の良い話だ。偽善と非難されても仕方ない。 何故なら、誰かに迷惑をかけなきゃ生きられないから。死ぬというのは肉体の破壊だから、基本的に苦しくて、汚い。普通に死んだら、後は必ず誰かのお世話にならないと亡骸を始末できない。誰にも迷惑をかけない死に方は、汚い。結局は誰かに迷惑をかける。 それに「誰かの役に立ちたい」、と望むのは自己愛で、相手からの感謝を期待したら偽善だ。ましてや相手に感謝を強要するのは最低だ。 例えば、我が子に対し「親の愛情」と称して何不自由なく与えコテコテの過保護をしたとする。 こういうバカ親ぶりを賞賛する人はいるかも知れないが、その結果、内外から「親に感謝しろ」とプレッシャーをかけられ、親に頭が上がらず、永遠に親から自立できない子に育ち、いずれ親が衰えて養えなくなり、親が先に逝ってしまえば、それは子に対する究極のネグレクトである。残された子供は親の自己愛の被害者である。 あるいはその前に、多感な時期を迎えた子供が自立しようと反抗し、親の愛情という美名の下に自立の芽を摘まれて挫折すれば、その恨みを反社会的な行動で晴らそうとするかも知れない。もしそうなれば、それは親の自己愛と偽善がもたらす、取り返しのつかない社会悪だ。 そもそも、自分の行為が人の役に立ったかどうかは、あくまで結果論で後世の第三者が判断することだ。「ありがた迷惑」になっていれば、謙虚に反省すべきだ。例えば、私は自分の価値観が合理的で正義であると押しつけ傲慢に振る舞い、結果的には大量殺戮を繰り返し、本音は他国からの搾取と自国の覇権を追求するアメリカが大嫌いだ。でも、今まで私自身が無意識の内に似たような事をしたり、加担して来ているのだろう。 公私共々こういう葛藤に向き合って、折り合いをつけながら、少しでも幅広い周りの人と末永く平穏を守るために、先々の課題を洗い出して問題に向き合い、解決し続けて行くことが、私にとって「生きる」ということなのかも知れない。 だからこそ課題を洗い出して問題に向き合うために、トコトン悲観的に考えるのである。 人は既得権益と築いたモノを失うのが怖いから不安になったり動揺する。悲観的な将来像を描いて、命以外の全てを失った状況を覚悟すれば、居直れる。そこから上を向いて歩こうと思えば、取り敢えず今を生きる気分になるものだ。
販売不振で赤字続きだ。資金が底をついたら倒産する。
「なりふり構わず仕事を取って来る。リストラはしない。死なば諸どもだ。」と宣言した。 誰もが無表情で反応が無い。 「・・・ってか、給料上がらないの?」という、心の声が聞こえて来る。そんな空気感。 これが私の職場だ。 数ヵ月後、やっとの思いで仕事を取って来た。 今までになく粗っぽく荒っぽい発注元で、段取りに戸惑う状況。 でも、世間はこれが普通だと思う。今までがラク過ぎたのだ。 でも、皆にしてみれば、そんな事は知ったことじゃない。誰もが明らかに不機嫌。 「余計な仕事を増やしやがって・・・」という職場の空気感。 この調子で定年まで潰れずに生き延びられたら、みんなイイ人生だよな? でも・・・、みんな一生ずっと不満なんだろうね。きっと。 朝礼の挨拶は聞こえないほど小さい声で、明らかに挨拶をシカトするのに、 休憩時間は隣の部屋にも聞こえて来るほどの大声で大爆笑。 挨拶の声が小さい事を指摘したら、「オレは元々、声が小さいから」と言い訳してたのにね? 震災や風評被害で生活基盤を失ってる人達には、全く無関心。心を痛める素振りもない。 明日は我が身なのにね? 確定しない事を考えたり、思いを馳せるのは、どうもバカらしいようだ。 でも、馬券や宝くじやロトの結果には情熱を注いでいる。 休憩時間は同僚と大騒ぎして、 自己啓発のイベントは集団ボイコットしながら、 裏でコソコソ気の合う者だけで遊びに行ったりするクセに、 そんな仲間の誰かがトラブったり体調を崩して休んだら、知らん振り。 この職場は、仮面コミュニティか? 内輪ではデカい顔して上司相手に上から目線で偉そうに話すクセに、 渉外に連れ出せば、借りて来た猫。 面倒臭い仕事、やりたくない仕事はシカトする。 痺れを切らした上司がやれば良いと考えている。 やれば、やったで鼻で哂って文句をつける。 上司に対して。 この職場が無くなったら、 今の姿勢と能力では、おそらく半分か1/3の給料でも雇う職場は無いだろう。 そういう自身の状況を客観視できないのだろうか? それとも「潰れるワケない」とタカをくくっているのだろうか? そういう彼らの態度を、「信頼されている」と解釈すべきだろうか? それとも、ナメられて、バカにされていると受け止めるべきだろうか? あるいは、あまりに無能で状況を理解できない幼稚な精神構造と思うべきだろうか? もしくは、単なる「甘ったれ」なのだろうか? まぁ、少なくともオレが信頼されている事だけは無いのだろう。。。
「人を信じてよく使う」と、美談仕立ての例を挙げながらマネジメントに携わる者の心得を説く話は多い。
チームの士気高揚、スタッフのモチベーション向上のためには、リーダーとの信頼関係が基本であり、リーダーがスタッフに対して不信感があっては任用できない。一方、スタッフも上司の態度には敏感だから、信頼されてないと感じ取れば、どんな美辞麗句でフォローされようとも士気は高まらない。 掃除や片づけの作業ひとつ例に挙げても、仕事は1人でやるより、同じ作業を2人でやれば半分以下の時間で終えて、2倍を超える効率をもたらす場合が多い。一方、二人で馴れ合いダラけた結果、1人でやるより時間がかかり、0.5に満たない効率となる場合もある。 その点、機械化したり外部のプロに外注すれば、機械の性能や外注先の実績で「仕事が読める」。予算内で目標の仕事量を達成できるなら、機械や外注先に仕事をやらせた方が堅実だ。しかし、デフレと縮小均衡が続くご時世だから、機械を買ったり外注する予算もないのに、機械の性能や外注先の能力を超える目標をクリアしないと事業が成り立たず存続できない・・・、といった局面が日常化する。 予算が無いのに、機械や外注先のプロにも出来ない仕事を内輪の誰がやれというのか?合理的に考えれば、こういう局面になった時点で「終わり」である。サッサと事業の継続を諦めて全員解雇して解散だ。 そういう局面のブレークスルーが、1+1を3にするような士気向上。給料が上がったりボーナスがつくわけでなく、むしろ削られる中で全く合理性が無いのだから、そんなシナリオは成り立たない。どこに動機や合理性があるのだろうか? 何といっても、労使共々、他に生きる道が無ければ、他に今以上の処遇で雇ってくれる職が無ければ、今の職にしがみつかざるを得ないからだろう。
1980年代の半ば、日本の半導体産業は「産業のコメ」と呼ばれ国の基幹産業であり、花形だった。私が在学していた大学の電気工学科では、成績優秀な人達にとって半導体産業は定番の就職先だった。
その後、国際競争が激化する一方、開発・設計・製造の高度化、さらにはサムソンをはじめとする韓国勢の台頭とコスト競争が激化した結果、全日本チーム結成のように、NEC・日立・三菱と、事実上は国産半導体メーカーが1社に集結してエルピーダメモリ社が発足した経緯は、素人の私が知ったかぶるまでもない。 半導体産業にコモディティ化という表現が当てはまるのか知らないが、いくら差別化・高度化しても、アッという間に平凡なモノになってしまい、投資を回収する前に価格競争に陥る。そのうえ、市場拡大の主要ユーザーだったPCが市場飽和した挙句、リーマン・ショック後の世界不況で市場収縮。「焼き畑農業」で言えば、焼き尽くして作付けを行う土地が無くなってしまったようだ。そして、強烈な円高で日本製の「コメ」は、コスト競争力を完全に失った。「国産米」に対する意地も、現実の前には虚しい精神論だ。 かつて羨望の視線を浴びながら意気揚々と就職して行った優秀な人達は、戦前の日本なら海軍や陸軍の兵学校に入った優秀な若者であり、自他共に将来の高級将校を確信するエリート達。太平洋戦争から敗戦に至る挫折を繰り返してしまったような気がしてならない。 今にして思えば、素人の私でさえ「もっともらしく」評論できるが、30年前に今の状況を予言することなど考えられなかった。韓国勢の上位メーカーを引き合いに、エルピーダの経営戦略ミスという指摘もあるが、国産をビジネスの前提にしている限り、価格競争力も採算性も有り得ない。 日本人は、「安心・安全」の絶対担保を求めるのが大好きなのに、30年後のビジネスモデルの前提(主に人件費要因による、新興国に対する価格競争力の喪失、為替レート)を悲観的に予測したときのシナリオを描いて折り込めなかったのか? 大地震や原発事故もそうだが、日本人は破滅的な将来予測や悲観シナリオをリアルに描いたり、それに向き合う事を「杞憂」で片づけて逃げる性質があると思う。「人間は、いずれ死を迎える」という普遍的な現実でさえ、絶対に起こるのに、向き合おうとしない。 出生率が低下すれば高齢社会となり、元気に働く世代の負担が高まり、人口収縮が起こり、社会保障費ひいては国家予算が構造的に破綻するシナリオも、30年どころか40年前でも論理的に想定できた。 中国をはじめ東南アジア諸国が桁違いに安い人件費と庶民の生活向上意欲を武器にコモディティ化した製品を安く量産するシナリオだって、日本が自ら実践して往時の欧米トップ・メーカー達を次々と衰退・破滅へ追い込み証明して来たではないか。 庶民の教育水準の高さ、愚直なまでの勤勉さ、忠誠心やモラルの高さを根拠に、「日本と同じ事が他国に出来るわけがない」という、言わずもがなの楽観的な空気が議論の前提になっていたと確信しているが、この30年の間に、日本は「個性化」の大義のもと、均質で比較的高水準だった基礎学力が世界トップレベルから中盤レベルに低下する一方、楽観視していたアジア諸国の学力水準が目覚しいレベルアップを果たした。忠誠心や廉恥の情念がなくなり、「自分らしく個性的に生きる」ことが単なる「身勝手」として定着し、モラルも勤勉さも失った。 「サラリーマン人生は陳腐でつまらない。頑張っても人生設計の前提が保証されず、給料は下がるし、終身雇用さえ担保されずリストラ解雇される。」という意識は、バブル期までの「Japan as No.1」を誇った日本人になかった。日本がアメリカに追いつき・追い越した理由として、アメリカ人庶民の勤労意識をそのように指摘していた。 全て、歴史的な事実や論理的な予測から想定できた事態なのに、受験戦争を勝ち残り東大法卒のトップエリートとして官界・財界を担った人達も、政治家もジャーナリズムも、インテリな有識者も、誰も本気で向き合わなかった。誰もが足元の課題やトラブル、目先の成長に執心で、そういうテーマに向き合うことはバカな変人扱いで、定番の「出世コース」を自ら離脱する意思表明になった。 まぁ、とりあえず、自己矛盾している国産米が、破綻したわけだ。 More
光市母子殺害事件で被告の死刑が確定した。被害者・加害者双方の当事者の心情と、心の移り変わりを思うと、報道を断片的に見聞きしているに過ぎない立場の私に責任ある言論の資格は無いが、敢えて無責任な立場から自己満足のために感じたことを書き留めることにした。
判決に対しては、「被害者感情」「加害者の責任」「社会秩序の維持」という観点から死刑を支持する立場と、「更生機会の付与」「生存権擁護から全ての殺人に反対し、権力による殺人も絶対反対」という考えから死刑反対の立場があると思う。 私は前者の立場だ。高い知性をもつ博愛主義者なら、その理念を貫くために後者を支持するだろうが、私は知性が乏しい現実論者なのだと思う。 無責任な立場から敢えて言わせてもらえれば、私は被告の父親が事件の真因と思っている。保護者の責任も含めて父親を吊るし上げ、被告と共に死刑に処したい気持ちである。 裁判の過程で、被告は被害者と自身が置かれた状況に向き合っていなかった。自分の事しか考えていない様子が社会的な心証を悪くした。庶民感情を逆撫でし、被害者感情が高まり、世間から同情された。ただし、被告は年齢よりも心が未熟で幼かった。本人の意思でそういう人格になったわけでなく、法的には責任能力の欠如や更生機会の付与という論理や先例主義が働いた結果、最初は無期懲役の判決だったと思う。その後、被害者感情と処罰感情が判決をひっくり返した経緯は、世の流れで私も支持する立場だ。 さらに加えたい考えは、歳相応に心が育っておらず、未熟である事については、保護者と義務教育に携わった教育者も重大な責任を負うべきということだ。直接的な加害者の処罰だけでは、「トカゲのシッポ斬り」に過ぎず、社会秩序(日本人が大好きな、安心・安全な社会)の本質的な改善につながらない。 現在の法体系や考え方の中では、現実的に不可能で荒唐無稽と嘲笑されるだろうが、少なくとも未成年の犯罪については保護者も同罪にして結果責任を負わせないと、社会秩序の崩壊に歯止めがかからないと思う。 今回のように「被害者の敵討ち」で終わってしまうと、死刑に処せられる加害者の命が活かされない。せめて本質的な再発防止に寄与させることが、「命の意義」につながるのではないだろうか? More
<訃報>松平康隆さん81歳=元男子バレー日本代表監督が報じられ、昭和の高度成長期を回顧する懐古趣味の衝動が生じた。
ミュンヘン五輪('72)当時、40年前の松平監督を今で言えば、ザック監督と、なでしこ・佐々木監督を掛け合わせても足りないほどの実績と知名度だったと思うが、昨夜のNHK・ニュースウオッチ9を見ていたら、女子アナが「今日まで、この人を知らなかった」と言っていたのが印象的だ。今から40年後にはザック監督や佐々木監督を知らない人がいるのかも知れない。 「アタックNo.1」や「サインはV」(共に原作開始は'68~)、競技は違うが「巨人の星('66~)」「柔道一直線('69~)」「あしたのジョー('67~)など、当時は「スポ根」マンガやドラマの全盛期。スポ根ドラマをリアルで実現した金メダルだった。血と汗と涙の悲壮感が漂う「根性論」と共に、何と言っても当時は荒唐無稽と思われる「技やトレーニング」が共通項だったと思う。 体格やパワーの圧倒的な違いがあれば、最初から「日本人にはムリ」と言って諦めるのが常識だろうが、それを諦めずに、実績が無いどころか荒唐無稽でも必殺技を編み出して、新技術を駆使して本当に世界一になった。 今どき「世界一の強味」を持たないと生きて行けないし、生き残れない。TPPがどうなろうが、いずれにせよ国際競争力のあるモノやサービスで外貨を稼いで来ないと生きて行けないからだ。格差を嫌う平和ボケした日本人にとって、「心を鬼にして一番を目指すこと」を好む・好まざるにかかわらず、日本が「生き残る」には、「世界一」を目指さざるを得ない。鉱物資源が乏しい日本がマクロ経済を支える産業で世界一の強味を持ち、稼ぎ続けるのは、スポーツにおいて体格差やパワーが圧倒的に異なる異国のチームと勝負するのと似たようなものだ。松平監督は、今も昔も変わらない「日本の生きる道」を実践して、ヒントを示した先人と思った。 逆に言えば、根性論を哂いモノにして生理的に拒絶する風潮のなか、常識と実績の延長線上でしか物事を考えられないような人材を再生産し続けて来た「今どきの日本」は、先人の根性で勝ち取った過去の栄光に安住して、先人の根性を冷やかしながら、無形の財産を食い潰し、「生きる道」を自ら閉ざして来たわけだ。 More
平成23年が終わり、平成24年になった。2011年が終わり、2012年になった。
「3.11」を持ち出すまでもなく、平成23年(2011年)は酷い年だった。私は被災者ではないが、この数年で生活基盤が崩れ事業が赤字続きとなり、倒産と破産が現実になって来た年だった。甘く見積もっても、事業の余命はあと2年。今の調子で更に売上が底割れしたり、不測の支出があれば余命1年がいいところか。 この先、楽観できる好材料は何ひとつ無いが、悲観すべき材料だけは、理路整然と論文が書けるほど沢山ある。 絶望的な状況の中で、わざわざ自殺する度胸はないけれど、生きる希望は何もない。ただ、不健康な生活習慣のせいで癌になれば、むしろゴールが見えた気がして安堵するつもりだ。もちろん一切の治療をしないし、下手に早期発見をすると迷いが生じるので手遅れになるまで受診しない。それから、脳卒中や心筋梗塞になって中途半端に救命して障害が残ると更なる負担が辛いので、家族は私を救命しない事にしている。私が家族に頼むまでもなく、家族の方から宣言されている。つまり、私の存在は、その程度なのだ。 それでも生きてる間は、生きなくてはならない。 誰を恨んでも状況は良くならないので、恨むのも面倒だ。 誰を頼っても私の状況を救う事は不可能だし、そもそも私を救う動機が存在しないので、誰かを頼る気にもならない。 私を頼る人は誰もいないので、生き甲斐もない。そもそも、頼られた所で私には何も出来ないので、頼られたくもない。 ただただ、生きている間は私に既に課せられた義務を淡々と果たすのみである。 周りの人達は楽しそうだ。何が根拠だか知らないが、何か希望を持っているようだ。 生きる事に執着して、健康に気をつかっている人が多い。 この世に希望など何もないのに、長生きして何が楽しいのだろうか・・・? そして、希望が何もなくても、楽しそうにバカバカしい事で騒いだり、くだらない事で笑っている。 たとえ空騒ぎでも、それが出来る人が羨ましい。私は空騒ぎをする気分にもなれない。 いったい、私は何のために生きているのだろう・・・? 社会に何も遺せぬまま、誰の役に立つこともできず、自己満足もなく、意味の乏しい人生を漫然とダラダラ送ってしまった。 今となっては、何もかもが面倒で、億劫だ。そんな新年の所感である。
橋下氏のやり方は、小泉元総理の政治手法を思い出させる。
政治屋の動機は「票」と「カネ」。特に現職議員は「票」を失うのが最大の脅威だ。その弱点を突けば、支持しないと「票を失う」という構図にすることで、政治基盤が脆弱で資金力が乏しくても大きな政党や反対勢力も賛成せざるを得なくなる。 ポイントは次の3点。 1.突拍子も無い、インパクトのある政策名で耳目を引きつけること。 2.政策の内容が、「少数の既得権者 vs. 現状に不満を持つ大多数の有権者」という構図にして、大多数の民意が得られること。 3.政策の実現が局所的でも、それが突破口になり大きな問題の本質改善につながること。 かつて「郵政民営化」を掲げ公費を食い物にする政官の不合理を争点に、反対勢力をあぶり出して非情に吊るし上げ、政官に不満を持つ大多数の民意を惹きつけた小泉政権の政治手法こそ、上記の3点を満たしていた。 「大阪都構想」を掲げて耳目を引きつけ、路頭に迷うリスクもなく同レベルの民間人よりも高給を取りオイシイ暮らしをしている行政マンを吊るし上げ、二重行政の不合理を争点にした橋下構想は、本人が意識したかどうかは別にしても、結果的には小泉手法の成功を手本にしていると思う。 ただし、橋下氏本人はもとより、民主党や自民党も「小泉」にヒモづけられるのはイヤなことだろう。小泉政権がもたらした「行き過ぎ」を突かれ、冷や水を浴びせられて、民意の期待や賛同が萎えてしまう状況こそ最大のリスクだからだ。そういう「冷や水」を浴びせて得するのは誰か?恐らく極左勢力の共産党や旧・社会党あたりだろうが、民主党や自民党も橋下氏と敵対する立場になれば、小泉政権が遺した負の部分を持ち出して橋下構想の不安感を煽り、舌鋒鋭く批判することだろう。それから、かつて左寄りな情緒論で「反・小泉」「ストップ the 小泉」と連呼していた一部の市民も、今後は橋下氏の不安感を煽る言論を発言するだろう。 逆に、橋下氏は民主党や自民党がそうならないように、批判すれば自己矛盾に陥り民意の不信となって、ますます票を失うように、要所要所で釘を刺しているはずだ。 こういう橋下氏をどう思うか?私は素晴らしいと思う。大阪の不況は酷い。治安も悪いし凶悪事件も目立つ。朝、役所が開くと生活保護を求める人が雪崩込んで来る日常は異常だ。カネは空からタダで降って来るものじゃない。そんな中で、大阪府と大阪市で二重にまきあげた税金を食い物にしている構図は許しがたい。 先ずは、その一点をブチ壊すだけで良いではないか?全てのリスクや懸念点を上回る動機があると思う。 そんな事すら国を動かして法律を変えないと実現が出来ない大事業。閉塞感のある日本を変えるのは、政治屋の間で政権交代することでなく、橋下氏のような人による地方分権だ。ただし、永遠に橋下氏のような逸材が出て来るかは別だが。。。 More
明石家さんまがメッシに「間抜け」な質問 日テレのインタビューが海外でも「酷評」・・・という記事を読んだ。
さんま(敬称略)にしてみれば、あの流れの中で自身の芸風を変えるわけにも行かなかったのだろう。 キー局となる主要TV局は、スポンサーの財力任せに世の中の先端を行ってるつもりなのだろう。だが、世界の中ではKYでマナー知らずの田舎者であることを自ら世界に向かって発信したわけだ。そして、世界に向かってさんまに恥をかかせて、さんまが国際感覚が乏しい国内専門の田舎タレントであることを印象づけた。 さんまの立場を思うと、自身の本音がどうあれTV局向けの「芸」に徹せざるを得なかったのが気の毒だ。 さんまをはじめTV局の制作スタッフは世界に配信している事を知らなかったのではないか?だとすれば、世界に配信される事を知りながら、このような事態を想定できず、あらかじめ世界配信を折り込んで制作することを考慮しなかったわけで、そういうTV局(恐らくプロデューサー級の立場にある人)の「ボケ」が日本人全体に恥をかかせたことになる。 More
「震災直後から不明 奥山リポーター遺体で発見か」
「 浅田真央選手の母死去=帰国も間に合わず―女子フィギュア」 という記事を見かけた。 どちらも惜しまれる早い旅立ち。先ずは故人のご冥福をお祈りし、故人を惜しむ近しい人達にお悔やみ申し上げます。 人生の最期に対して、人生の幸・不幸を語るには準備不足で、特に何をもって「幸せ」とするかは人それぞれだし私の考えを披瀝する気もない。だが、「不幸」はワリと一般化し易いと思う。世間の人達も、「幸せになりたい」などと口で言いながら、実は「幸せ」についてキチンと語り、実現に向けてキチンと生き方を創って実行し続けている人は限られるはずで、多くの人は「取り敢えず不幸を避ける」生き方を選びながら漫然と過ごしていると思う。 では、人生の最期たる「死」について、「幸・不幸」をどう考えるか? 大往生と言われて惜しまれるように100歳を大幅に超えて、子・孫・ひ孫・玄孫・・・と自分の血を引く大家族に見守られながら、自宅で快適な環境で長年慣れ親しんだ自分の布団の上で老衰で眠るように静かに昇天する。そのうえ、相続やら何やら「ヤヤこしい話」は全て円満に段取りがついている状態。お通夜や告別式は格式の高さや家系の重みを感じさせながら、嫌味が無く近所や知人など親族以外の参列多数。しめやかに、ほほえましく儀式を終えて、良好なロケーションの綺麗に整備された墓地に埋葬され、格調高い戒名をつけられ、セレブな雰囲気の仏間・仏壇に収まる。これが、世間体としては「幸せ」な最期なのだろう。 逆に言えば、上記の死に様の反対が「不幸」な最期だ。すなわち、若い内の孤独死や、天変地異・紛争・事件・事故にともなう損壊の激しい死に方、葬儀もされず、生前の本人を知る者が誰も知らない内に、遺体というより単なる「死体」として「処分」されたり、それすら叶わず、誰も知らない所で朽ち果てている状態が、「不幸」と受け止める人は比較的多いと思う。 少なくとも、若くして死ぬこと自体は不幸と思えないし、長生きするのが「幸せ」とも思えない。何か達成してから死ぬよりも、「非業の死」などと言われるが、夢や目標の達成に向けて進んでいる途中で将来を期待しながら死ぬのが最もラクである。 今どき「ラク」で「快適」、「オイシく」て、「深く考えない」生き方を「追求する」というより「選択する」人が多いと思うが、そのくせ「安心・安全」で「死にたくない」「長生きしたい」と言う。私から見れば軽薄の極みだ。少なくとも軽薄な生き様の末に「長生き」して不幸になることはあれども「幸せ」な最期なんて想像できない。 かくして、「人生は太く、短く」済ませるのが最も「不幸でない」最期と考えている。いずれ基礎体力の不足や生活習慣病の深刻化と共に日本人の平均寿命は低下して行くだろうが、それは良い事だ。 More
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