|
カテゴリ
最新のコメント
最新のトラックバック
以前の記事
2012年 12月
2012年 01月 2011年 12月 2011年 11月 2011年 10月 2011年 09月 2011年 07月 2011年 06月 2011年 04月 2011年 01月 2010年 11月 2010年 10月 2010年 09月 2010年 07月 2010年 06月 2010年 05月 2010年 04月 2010年 03月 2010年 02月 2010年 01月 2009年 12月 2009年 11月 2009年 10月 2009年 09月 2009年 08月 2009年 07月 2009年 06月 2009年 05月 2009年 04月 2009年 03月 2009年 02月 2008年 12月 2008年 11月 2008年 10月 2008年 09月 2008年 08月 2008年 07月 2008年 06月 2008年 05月 2008年 04月 2008年 03月 2008年 02月 2008年 01月 2007年 12月 2007年 11月 2007年 10月 2007年 09月 2007年 08月 2007年 06月 2007年 05月 2007年 04月 2007年 03月 2007年 02月 2007年 01月 2006年 12月 2006年 11月 2006年 10月 2006年 09月 2006年 08月 2006年 07月 2006年 06月 2006年 05月 2006年 04月 ファン
|
私は何でも物事を悲観的に捉える。自他共に認める暗いヤツだ。
しかも私の本音が顔に出て傍目に直ぐバレるから、誰からも距離を置かれる。 リアルなコミュニティの中では出来る限り調子を合わせているが、疲れて顔に出る。 調子が良くて皆が浮かれている時ほど、内心はブルーになる。 絶頂とは下降と衰退、ひいては滅亡の始まりだからだ。 堕ちる恐怖と絶望を味わうくらいなら、絶頂を先延ばしにして苦しみ登り続ける方がマシだ。 苦しくても上を向いて歩く方が楽しい。 ホントかどうか知らないが、登山で起こる遭難は下山途中の方が多いと聞く。 飛行機は離陸より着陸の方が難しいと聞く。 賞賛すべき事を成し遂げても、晩節を汚した人は多い。 私は一度きりの人生で何を成し遂げたいわけでもない。ただ、生きたい。 それから、周りになるべく迷惑をかけず、晩節を汚さず、出来れば誰かの役に立ってから、綺麗に死にたい。 しかし、これは矛盾しまくりで調子の良い話だ。偽善と非難されても仕方ない。 何故なら、誰かに迷惑をかけなきゃ生きられないから。死ぬというのは肉体の破壊だから、基本的に苦しくて、汚い。普通に死んだら、後は必ず誰かのお世話にならないと亡骸を始末できない。誰にも迷惑をかけない死に方は、汚い。結局は誰かに迷惑をかける。 それに「誰かの役に立ちたい」、と望むのは自己愛で、相手からの感謝を期待したら偽善だ。ましてや相手に感謝を強要するのは最低だ。 例えば、我が子に対し「親の愛情」と称して何不自由なく与えコテコテの過保護をしたとする。 こういうバカ親ぶりを賞賛する人はいるかも知れないが、その結果、内外から「親に感謝しろ」とプレッシャーをかけられ、親に頭が上がらず、永遠に親から自立できない子に育ち、いずれ親が衰えて養えなくなり、親が先に逝ってしまえば、それは子に対する究極のネグレクトである。残された子供は親の自己愛の被害者である。 あるいはその前に、多感な時期を迎えた子供が自立しようと反抗し、親の愛情という美名の下に自立の芽を摘まれて挫折すれば、その恨みを反社会的な行動で晴らそうとするかも知れない。もしそうなれば、それは親の自己愛と偽善がもたらす、取り返しのつかない社会悪だ。 そもそも、自分の行為が人の役に立ったかどうかは、あくまで結果論で後世の第三者が判断することだ。「ありがた迷惑」になっていれば、謙虚に反省すべきだ。例えば、私は自分の価値観が合理的で正義であると押しつけ傲慢に振る舞い、結果的には大量殺戮を繰り返し、本音は他国からの搾取と自国の覇権を追求するアメリカが大嫌いだ。でも、今まで私自身が無意識の内に似たような事をしたり、加担して来ているのだろう。 公私共々こういう葛藤に向き合って、折り合いをつけながら、少しでも幅広い周りの人と末永く平穏を守るために、先々の課題を洗い出して問題に向き合い、解決し続けて行くことが、私にとって「生きる」ということなのかも知れない。 だからこそ課題を洗い出して問題に向き合うために、トコトン悲観的に考えるのである。 人は既得権益と築いたモノを失うのが怖いから不安になったり動揺する。悲観的な将来像を描いて、命以外の全てを失った状況を覚悟すれば、居直れる。そこから上を向いて歩こうと思えば、取り敢えず今を生きる気分になるものだ。
<訃報>松平康隆さん81歳=元男子バレー日本代表監督が報じられ、昭和の高度成長期を回顧する懐古趣味の衝動が生じた。
ミュンヘン五輪('72)当時、40年前の松平監督を今で言えば、ザック監督と、なでしこ・佐々木監督を掛け合わせても足りないほどの実績と知名度だったと思うが、昨夜のNHK・ニュースウオッチ9を見ていたら、女子アナが「今日まで、この人を知らなかった」と言っていたのが印象的だ。今から40年後にはザック監督や佐々木監督を知らない人がいるのかも知れない。 「アタックNo.1」や「サインはV」(共に原作開始は'68~)、競技は違うが「巨人の星('66~)」「柔道一直線('69~)」「あしたのジョー('67~)など、当時は「スポ根」マンガやドラマの全盛期。スポ根ドラマをリアルで実現した金メダルだった。血と汗と涙の悲壮感が漂う「根性論」と共に、何と言っても当時は荒唐無稽と思われる「技やトレーニング」が共通項だったと思う。 体格やパワーの圧倒的な違いがあれば、最初から「日本人にはムリ」と言って諦めるのが常識だろうが、それを諦めずに、実績が無いどころか荒唐無稽でも必殺技を編み出して、新技術を駆使して本当に世界一になった。 今どき「世界一の強味」を持たないと生きて行けないし、生き残れない。TPPがどうなろうが、いずれにせよ国際競争力のあるモノやサービスで外貨を稼いで来ないと生きて行けないからだ。格差を嫌う平和ボケした日本人にとって、「心を鬼にして一番を目指すこと」を好む・好まざるにかかわらず、日本が「生き残る」には、「世界一」を目指さざるを得ない。鉱物資源が乏しい日本がマクロ経済を支える産業で世界一の強味を持ち、稼ぎ続けるのは、スポーツにおいて体格差やパワーが圧倒的に異なる異国のチームと勝負するのと似たようなものだ。松平監督は、今も昔も変わらない「日本の生きる道」を実践して、ヒントを示した先人と思った。 逆に言えば、根性論を哂いモノにして生理的に拒絶する風潮のなか、常識と実績の延長線上でしか物事を考えられないような人材を再生産し続けて来た「今どきの日本」は、先人の根性で勝ち取った過去の栄光に安住して、先人の根性を冷やかしながら、無形の財産を食い潰し、「生きる道」を自ら閉ざして来たわけだ。 More
平成23年が終わり、平成24年になった。2011年が終わり、2012年になった。
「3.11」を持ち出すまでもなく、平成23年(2011年)は酷い年だった。私は被災者ではないが、この数年で生活基盤が崩れ事業が赤字続きとなり、倒産と破産が現実になって来た年だった。甘く見積もっても、事業の余命はあと2年。今の調子で更に売上が底割れしたり、不測の支出があれば余命1年がいいところか。 この先、楽観できる好材料は何ひとつ無いが、悲観すべき材料だけは、理路整然と論文が書けるほど沢山ある。 絶望的な状況の中で、わざわざ自殺する度胸はないけれど、生きる希望は何もない。ただ、不健康な生活習慣のせいで癌になれば、むしろゴールが見えた気がして安堵するつもりだ。もちろん一切の治療をしないし、下手に早期発見をすると迷いが生じるので手遅れになるまで受診しない。それから、脳卒中や心筋梗塞になって中途半端に救命して障害が残ると更なる負担が辛いので、家族は私を救命しない事にしている。私が家族に頼むまでもなく、家族の方から宣言されている。つまり、私の存在は、その程度なのだ。 それでも生きてる間は、生きなくてはならない。 誰を恨んでも状況は良くならないので、恨むのも面倒だ。 誰を頼っても私の状況を救う事は不可能だし、そもそも私を救う動機が存在しないので、誰かを頼る気にもならない。 私を頼る人は誰もいないので、生き甲斐もない。そもそも、頼られた所で私には何も出来ないので、頼られたくもない。 ただただ、生きている間は私に既に課せられた義務を淡々と果たすのみである。 周りの人達は楽しそうだ。何が根拠だか知らないが、何か希望を持っているようだ。 生きる事に執着して、健康に気をつかっている人が多い。 この世に希望など何もないのに、長生きして何が楽しいのだろうか・・・? そして、希望が何もなくても、楽しそうにバカバカしい事で騒いだり、くだらない事で笑っている。 たとえ空騒ぎでも、それが出来る人が羨ましい。私は空騒ぎをする気分にもなれない。 いったい、私は何のために生きているのだろう・・・? 社会に何も遺せぬまま、誰の役に立つこともできず、自己満足もなく、意味の乏しい人生を漫然とダラダラ送ってしまった。 今となっては、何もかもが面倒で、億劫だ。そんな新年の所感である。
橋下氏のやり方は、小泉元総理の政治手法を思い出させる。
政治屋の動機は「票」と「カネ」。特に現職議員は「票」を失うのが最大の脅威だ。その弱点を突けば、支持しないと「票を失う」という構図にすることで、政治基盤が脆弱で資金力が乏しくても大きな政党や反対勢力も賛成せざるを得なくなる。 ポイントは次の3点。 1.突拍子も無い、インパクトのある政策名で耳目を引きつけること。 2.政策の内容が、「少数の既得権者 vs. 現状に不満を持つ大多数の有権者」という構図にして、大多数の民意が得られること。 3.政策の実現が局所的でも、それが突破口になり大きな問題の本質改善につながること。 かつて「郵政民営化」を掲げ公費を食い物にする政官の不合理を争点に、反対勢力をあぶり出して非情に吊るし上げ、政官に不満を持つ大多数の民意を惹きつけた小泉政権の政治手法こそ、上記の3点を満たしていた。 「大阪都構想」を掲げて耳目を引きつけ、路頭に迷うリスクもなく同レベルの民間人よりも高給を取りオイシイ暮らしをしている行政マンを吊るし上げ、二重行政の不合理を争点にした橋下構想は、本人が意識したかどうかは別にしても、結果的には小泉手法の成功を手本にしていると思う。 ただし、橋下氏本人はもとより、民主党や自民党も「小泉」にヒモづけられるのはイヤなことだろう。小泉政権がもたらした「行き過ぎ」を突かれ、冷や水を浴びせられて、民意の期待や賛同が萎えてしまう状況こそ最大のリスクだからだ。そういう「冷や水」を浴びせて得するのは誰か?恐らく極左勢力の共産党や旧・社会党あたりだろうが、民主党や自民党も橋下氏と敵対する立場になれば、小泉政権が遺した負の部分を持ち出して橋下構想の不安感を煽り、舌鋒鋭く批判することだろう。それから、かつて左寄りな情緒論で「反・小泉」「ストップ the 小泉」と連呼していた一部の市民も、今後は橋下氏の不安感を煽る言論を発言するだろう。 逆に、橋下氏は民主党や自民党がそうならないように、批判すれば自己矛盾に陥り民意の不信となって、ますます票を失うように、要所要所で釘を刺しているはずだ。 こういう橋下氏をどう思うか?私は素晴らしいと思う。大阪の不況は酷い。治安も悪いし凶悪事件も目立つ。朝、役所が開くと生活保護を求める人が雪崩込んで来る日常は異常だ。カネは空からタダで降って来るものじゃない。そんな中で、大阪府と大阪市で二重にまきあげた税金を食い物にしている構図は許しがたい。 先ずは、その一点をブチ壊すだけで良いではないか?全てのリスクや懸念点を上回る動機があると思う。 そんな事すら国を動かして法律を変えないと実現が出来ない大事業。閉塞感のある日本を変えるのは、政治屋の間で政権交代することでなく、橋下氏のような人による地方分権だ。ただし、永遠に橋下氏のような逸材が出て来るかは別だが。。。 More
明石家さんまがメッシに「間抜け」な質問 日テレのインタビューが海外でも「酷評」・・・という記事を読んだ。
さんま(敬称略)にしてみれば、あの流れの中で自身の芸風を変えるわけにも行かなかったのだろう。 キー局となる主要TV局は、スポンサーの財力任せに世の中の先端を行ってるつもりなのだろう。だが、世界の中ではKYでマナー知らずの田舎者であることを自ら世界に向かって発信したわけだ。そして、世界に向かってさんまに恥をかかせて、さんまが国際感覚が乏しい国内専門の田舎タレントであることを印象づけた。 さんまの立場を思うと、自身の本音がどうあれTV局向けの「芸」に徹せざるを得なかったのが気の毒だ。 さんまをはじめTV局の制作スタッフは世界に配信している事を知らなかったのではないか?だとすれば、世界に配信される事を知りながら、このような事態を想定できず、あらかじめ世界配信を折り込んで制作することを考慮しなかったわけで、そういうTV局(恐らくプロデューサー級の立場にある人)の「ボケ」が日本人全体に恥をかかせたことになる。 More
「震災直後から不明 奥山リポーター遺体で発見か」
「 浅田真央選手の母死去=帰国も間に合わず―女子フィギュア」 という記事を見かけた。 どちらも惜しまれる早い旅立ち。先ずは故人のご冥福をお祈りし、故人を惜しむ近しい人達にお悔やみ申し上げます。 人生の最期に対して、人生の幸・不幸を語るには準備不足で、特に何をもって「幸せ」とするかは人それぞれだし私の考えを披瀝する気もない。だが、「不幸」はワリと一般化し易いと思う。世間の人達も、「幸せになりたい」などと口で言いながら、実は「幸せ」についてキチンと語り、実現に向けてキチンと生き方を創って実行し続けている人は限られるはずで、多くの人は「取り敢えず不幸を避ける」生き方を選びながら漫然と過ごしていると思う。 では、人生の最期たる「死」について、「幸・不幸」をどう考えるか? 大往生と言われて惜しまれるように100歳を大幅に超えて、子・孫・ひ孫・玄孫・・・と自分の血を引く大家族に見守られながら、自宅で快適な環境で長年慣れ親しんだ自分の布団の上で老衰で眠るように静かに昇天する。そのうえ、相続やら何やら「ヤヤこしい話」は全て円満に段取りがついている状態。お通夜や告別式は格式の高さや家系の重みを感じさせながら、嫌味が無く近所や知人など親族以外の参列多数。しめやかに、ほほえましく儀式を終えて、良好なロケーションの綺麗に整備された墓地に埋葬され、格調高い戒名をつけられ、セレブな雰囲気の仏間・仏壇に収まる。これが、世間体としては「幸せ」な最期なのだろう。 逆に言えば、上記の死に様の反対が「不幸」な最期だ。すなわち、若い内の孤独死や、天変地異・紛争・事件・事故にともなう損壊の激しい死に方、葬儀もされず、生前の本人を知る者が誰も知らない内に、遺体というより単なる「死体」として「処分」されたり、それすら叶わず、誰も知らない所で朽ち果てている状態が、「不幸」と受け止める人は比較的多いと思う。 少なくとも、若くして死ぬこと自体は不幸と思えないし、長生きするのが「幸せ」とも思えない。何か達成してから死ぬよりも、「非業の死」などと言われるが、夢や目標の達成に向けて進んでいる途中で将来を期待しながら死ぬのが最もラクである。 今どき「ラク」で「快適」、「オイシく」て、「深く考えない」生き方を「追求する」というより「選択する」人が多いと思うが、そのくせ「安心・安全」で「死にたくない」「長生きしたい」と言う。私から見れば軽薄の極みだ。少なくとも軽薄な生き様の末に「長生き」して不幸になることはあれども「幸せ」な最期なんて想像できない。 かくして、「人生は太く、短く」済ませるのが最も「不幸でない」最期と考えている。いずれ基礎体力の不足や生活習慣病の深刻化と共に日本人の平均寿命は低下して行くだろうが、それは良い事だ。 More
EUの経済危機でギリシアやイタリアの混乱はもとよりフランスもよろけて来て、優等生のドイツでさえ借金すら困難になって来ている。日本の財政だって、3.11が無かったとしても社会保障費やプライマリーバランスの絶望的な状況があったのに、3.11で更なる十字架を背負ってしまった。
専門家や政策通が「したり顔で」財政の緊縮や増税、あるいは産業振興や新規産業の創出とシフトなど様々な処方箋を述べているが、一方では、どれもこれも難しい政治的状況で何も出来ずにいる。私から見れば、そういう処方箋でさえ「小手先の対応」に過ぎないと思う。これらの施策が首尾よく出来ても、所詮は破綻を先送りするだけで、世界恐慌と経済収縮は時間の問題だ。 大昔のギャグ漫画に出て来るボーリングのボールみたいな形をした爆弾みたいなもので、火のついた導火線を「たらい回し」しているようなものだ。あの手この手で導火線の火を消そうとしたり、導火線を延長しようとするが、爆弾そのものが無くなるわけじゃない。そもそも経済活動が活発になるほど導火線を燃やすことになるというジレンマを抱えている。結局、最期に持たされた人が爆弾を炸裂させた瞬間、ドミノ倒しのように日米欧をはじめ経済大国と言われる各国が関係各国を巻き込みながら連鎖倒産して行くだろう。 国も企業も個人も、揃って支払いや返済が出来なくなるのだから、破産の連鎖が起きて、債権者は債権放棄を余儀なくされる。破産と債権放棄の連鎖によって、国も企業も個人も世界中の資産が一瞬の内に消失または収縮する。 日本国民の身近な影響は、とりあえず国債が紙クズになる。年金はもとより、預金・積立・保険の支払いがブッ飛び、手持ちの資産や現金は自身の借金に取られてしまう。何しろ国が破綻して無政府状態に陥るのだから、預金の保全や支払い義務の法的保証などブッ飛ぶわけだ。たとえ借金をしていない人が不動産をはじめタンスにカネや金を隠し持っていたとしても、国が破産すれば、事実上の連帯保証人は国民だから、なりふり構わぬ取り立てが税金など様々な名目で押し寄せて奪い取って行くだろう。手持ちの金品を持って海外へ逃げても状況は変わらない。何しろ、どの国へ逃げようとも行く先が無政府状態である。資産を持って来た異国の者には、自国民よりも酷い仕打ちが待っているだろう。タックスヘイブンな南の島の小国など、アッという間に満員御礼。そういう所へ逃げ出したければ、今のうちに行っておかないと手遅れである。本当のセレブはとっくに対応を済ませているだろう。 まさにシャボン玉が弾けて小さな「しずく」になるようなものだ。主要各国の国家経済が破綻して無政府状態になるのだから、政治・行政が機能せず安全保障体制も機能停止する。中国・北朝鮮をはじめテロ国家やテロリストはヤリたい放題となり、世界征服の機会が訪れる。世界中で難民化した民族移動と大虐殺の日々になるかも知れない。 これぞ正真正銘の「バブルが弾けた」状況。これが世界の近未来だ。核兵器や原発事故は恐怖だが、経済の破綻と収縮は核よりもコントロールが困難に思える。ついでに述べれば、福島原発やチェルノブイリ原発の廃炉作業も放置されて安全確保も出来ないだろうし、世界中の原発も制御されぬまま放置されるだろうから、これらの原発が地球全体に放射能を撒き散らすだろう。 唯一の回避策は、全ての借金を上回る収益構造を構築することに尽きるが、絶望的だ。何故ならば、経済学を持ち出すまでもなく、次の状況が間違いないと思えるからだ。 先ず借金の総額は実体経済をはるかに上回っているのだから、実体経済の稼ぎから返済するのは無理。いくら働いても昇給や出世が期待できない月収20万円のサラリーマンの立場で、生涯賃金を上回る借金をどうやって返すというのか? 自ずと、借金を返済できるほどの収入を稼げるようにするしか無いが、経済大国が同時に国を挙げてそんな稼ぎが出来るようになるハズもない。帝国主義や植民地政策のように、昔なら国も企業も「弱者からの搾取」という方法で事態を打開して来たが、今どき日米欧が他国へシワ寄せを及ぼさず、奴隷も使わずに実現する方策など考えられない。 そして、「平和」と「幸福」と「自己責任」の前提を究極に求めるのであれば、全世界の人々が一斉に経済成長の概念を捨て去り、同時に自給自足の農耕生活を始めて、未来永劫に代々それを続けるしか無い。ただし、皮肉だが温暖化問題には好ましい対応となる。 逆説的だが、以上のいずれの対応も現実的に不可能だから、人類の経済的な破滅と社会の混乱は避けられない。千年に1度の天変地異よりも、ずっと身近に迫っている全人類の近未来と悲惨な末期を、ここに予言しておく。
”こんな日本に誰がした? シューカツ生は「クローン人間」か”というタイトルに釣られて記事を読んでしまった。
言いたい事から書けば、「悪者探し」は不毛だ。タイトルに書いた通り、「リスク回避」の志向に原因がある。その本質は「恐怖心」であり、恐怖心を抱かせたのは求人側を含めた社会全体の構造的問題である。 何しろ、今どき「挑戦すること」よりも「失敗しないこと」が最重要である。メディアは何かと「勝ち組・負け組」に仕分けて「勝ち負け」を煽るが、多くの平凡な日本人は「勝ちたい」のではない。ただひたすら「安心・安全」を望んでいて、「(負けて)失うことへの恐怖心」が行動の動機になっている。 就職事情で言えば、とにかく「堕ちたら、どこまで堕ちるか・・・底なしの奈落の底。復活はノーチャンス。」である。それが就職の現実として認知されているわけで、新卒の就職事情や若者気質を変えるには、この恐怖心を払拭することが本質だろう。 その点、就活学生の没個性を嘆く企業やメディアは勝手に過ぎる。企業だって「失敗」して「失うこと」への恐怖心から、「実績」のある者や企画に偏り、結果的に没個性で横並びな商品やサービスばかりになっているのではないか?TV番組やアニメだって、そうではないのか?挑戦的で完全にオリジナルな企画の作品が、果たしてどれだけあるのだろうか?しかも、そういう革新的な商品やサービス、作品の中に、世界を変えるほど影響を与えて、国内や世界の経済を変えるほどの成功を収めた者がいるのだろうか?せいぜい、スティーブが遺した製品コンセプトを後追いし、便乗して、あるいは評論しているだけじゃないのか? 社会や企業がいくら総論として「個性」や「挑戦」を掲げようとも、各論で企業にいる者が保身を動機に物事を判断している以上、個性も挑戦も虚しい絵空事である。企業側が没個性な学生に嫌気が差して、本気で学生の個性を見極めたければ、面接案内に「リクルート用スーツの着用や整髪・メイクを禁止し、通学時と同じ身なりで来社すること」と明記すれば良い。私なら「あなたが当社に通勤する場合に希望する身なりで来社すること」というテーマを与える。企業の研究や理解度をはじめ、本人の価値観や個性が少しは見えて来る気がする。その程度の対応さえリスクを恐れて出来ない企業が学生に多くを求めるのは矛盾している。 大卒の就職を希望する新卒者は約37万人と推定されており、内定者数が約34万人弱とのこと。多くの平凡な就活生は、約9%の就職浪人になりたくない一心だと思う。 「窮鼠猫を噛む」じゃないが、いっそのこと9割が就職できない状況になれば、居直って挑戦的に立ち振る舞う者が現れるかも知れないが、1割弱が就職できない状況というのは微妙である。「敢えて挑戦しなくても、無難にミスさえしなければ、9割の側として、どこかに就職できる」と考えてしまうのが堅実な日本人の発想になるのではないか? 何しろ大多数の学力平凡な日本人は、中学生の頃から進学指導で堅実に合格する学校を受験するようにすり込まれていて、どれほど無謀でも難関校に高い目標を定める、という挑戦的な発想の芽を摘み取られて育っている。とにかく「無難に」生きる事をすり込まれているのだから、リスク回避志向が身なりの横並びにつながるのは当然の帰結だ。だからと言って中学や高校の進路指導者を責めても不毛である。公務員系の「でも・しか教諭」こそ、「リスク回避」を最大の動機とする立場であり、そういう教育を当然と受け止める親の多くも子供に「リスク回避」で「安心・安全の無難な人生」を期待しているのだ。これは社会全体の構造的な問題で、政治家や有識者をはじめ、文部科学省や教育委員会、PTAや日教組が何をしようとも無理である。 何故ならば、「リスク回避」こそ「日本人の心」であり、「安心・安全」を求める平凡な大多数の日本人にとって動機の本質だからである。バブル崩壊後の「右肩下がり」の時代を迎えてから、皮肉なことに「リスク回避」で「安心・安全」を追求する志向が「閉塞感の連鎖」という無限ループと「縮み志向」の悪循環を生んでいるわけだ。 じゃあ・・・、取り敢えず現に就活中の学生は、どうすれば良いのか? 当事者たる就活学生が自ら突き抜けるしかない。ビジネスの世界で言われている事が、そっくり当てはまる。すなわち「常識を疑え」というのが第一歩だろう。 大学の就職指導や就職情報サイトで教わる「マナー」が没個性につながっているのは明らか。かといって、奇抜な格好で自己主張して目立つばかりが個性じゃない。 ビジネスは「売り手よし ・ 買い手よし ・ 世間よし」の「三方良し」である。そういう身なりで面接に行けば良いではないか?「キミは、どうしてその格好で面接に来たの?」と質問されたら、しめたものだ。私なら、次のように応える。 「リクルート・スーツでは就職活動が終わるまで、せいぜい新人研修の間までしか着れないと考えて、入社してからも着られる服を選びました。」 あとは空気を読んで、本当にそういう気持ちがあるなら、「この服で貴社に通勤し、○○部門で活躍したい、という願いを込めました。」と付け足すかどうか・・・である。本気で思ってなければ、これほど「鼻持ちならぬ嫌味な言い方」は無いので、心底そう思っていることがポイントである。 大事なのは、身なり自体の問題でなく、「自身の創意工夫で決めたこと」が伝わるかどうかである。本人の趣味の範囲内(売り手よし)、会社にとって好感が持てて(買い手よし)、その会社の社員として恥ずかしくない格好(世間よし)を、自身の知恵と価値観でバランスを取って決めれば良い。 会社側(面接者)が、どう見るか読み切れないと不安に考えて思考停止に陥る者はいるだろうが、私なら、その会社の出退勤時間帯に出入りする社員の様子を観たり、面接の前に見学の機会があれば狙いの部門のフロアを見渡して、傾向を見極める。ビジネスと思えば売り込み先の事前リサーチは当然である。 そういう手順やバランスの優先度といった判断すら自身の頭で決められない人は、万がいち就職できても、就職してから辛いだろう。 More
「皇室典範」や「愛子さま」報道の度に、ネット上では両極端な罵詈雑言が書き込まれる。
思想信条も言論も憲法で自由が保証されているが、わざわざネット上に天皇家への無関心や罵詈雑言を書き込む人は、左右の思想信条に分類するまでもなく、単に本人の境遇に対する不満や不安、自信の欠如を転化しているだけの「甘えた人」である。 日本人の伝統的な精神構造は「甘え」にあると考えているが、そういう観点から言うと、天皇は「甘えの対象」としての「象徴」である。 すなわち、左右のどちらから何を言おうとも、大多数の日本人は誰かに甘える事で精神の均衡を保っている。国民全ての甘えた感情の対象として、天皇をはじめ皇族は「日本人の甘え」を寛容な気持ちで一身に受け止めている。その社会的使命の重圧とストレスは凡人には耐えられないはずだ。だから、健康管理について恵まれた万全の体制にもかかわらず、皇族の多くが体調を崩すのだと思う。 そういう立場の人に対して「人としての心からの敬意」を示す事こそ、皇族に対して取るべき態度ではないか?
しばしばネウヨの定義や判別が不鮮明と指摘されている。
匿名によるネット上の言論は「無責任」であることが本質だ。言論の先鋭化や過激化を抑える要素は「責任」と「人としての抑制感情」にあると思うが、責任が無いうえ感情が逆に増長させる事もあり、「甘えた精神構造」が妄想とともに無限大に膨らむ。 しかも、日本人の伝統的な精神構造に「甘え」があるのは、過去の名著を紹介するまでもない。諸外国と比べて日本のネット世論に現実の行動が伴わないとすれば、その理由は「甘えの構造」にあると思われる。 ネウヨの定義を根拠にもとづき論理的に書くには未だ材料不足だが、このほど「天皇誕生日の一般参賀要領」が報じられたのを見て、ネウヨの判別が端的に出来る気がした。すなわち、ネウヨはネット上の虚言だけでリアルの行動を伴わないから、一般参賀には行かないと考えられる。 一方、一般参賀で皇居に行き、日の丸を振って天皇に向かって万歳三唱する人こそ、半分リアルな「ウヨク」と判別できる。 なお、真正の右翼は実名を晒して天皇賛美をする人だろう。
|